Column

第232話 迂闊にも

10月下旬、予定してあったそれなりのスポーツイベントがほぼほぼ終わり、ひと息ついた頃、そろそろと山に登りたくなった。

冬季は八甲田にしばしばと出かけていたので、今回は岩手山に登る事にした。久々の岩手山、このあたりでは2000m越えの高い山である、準備万端覚悟を決めて向かわなくてはならない。ましてや先週初冠雪と聞いていたので尚更である。

麓は気温も18℃程ありロングスリーブ1枚で登り始める。それでも全身から汗が噴き出る。その汗をタオルで拭きつつ一歩一歩枯葉の積もる山道を登る。この時期はある程度の葉が枯れ落ち、そのせいで空が透けて山道は比較的明るい。熊鈴をけたたましく鳴らしながら軽快に進む。

馬返しの山道、途中から新道と旧道に分かれるのだが私は旧道を選択。いつもの事だ。なぜならガレ場が続き見晴らしがいいからだ。ガレ場は岩だらけの場所で木々が皆無、眼前200度程を障害物なしで見渡せるのである。まったくもって美しい風景である。

そのガレ場三か所すべてをクリアしたあたりから地表は白くなり始めてきていた。例の初冠雪の名残だ。それでもたいした積雪ではない。そんなものだろうとアイゼンは持参しては来なかった。進むにつれてじわりじわりと積雪がかさむ。それでも固まっているせいかビブラムで滑ることは無かった。

8合目の避難小屋に到着、避難小屋はすでに冬ごもりに入っている様子だった。この辺りまで来ると積雪は深い所で50cm程はありなかなかの銀世界である。そしてこの辺りまで来ると急に風が強くなる、岩手山ではいつもの事だ。                         

避難小屋の広場のベンチであったかいコーヒーを軽く口に含み喉を潤す。頂上までもう一息、頑張ろう。9合目の急坂を登り切り、あとはラウンドする火口路を先に見える頂上を目指して進む。強風でマウンテンパーカがバタバタと大きな音を発する。体感は-5℃くらいか。かなりの寒さを感じる。麓との気温とは雲泥の差だ。

それでもそんな事くらいで屈することは無い。そのまま進み頂上へと辿り着いた。

その頂上からの風景をひととおり撮影し、すぐにここを立ち去る。なぜなら寒いからだ、この氷の世界で休憩する気にはなれない。急坂を滑るように下り8合目の避難小屋へと小走りで向かう。そこで少しだけ休もう、そう思っている矢先突然の尿意が襲ってきた。こんな吹きっさらしの平原でするわけにはいかない。もう少し進もう、ただ避難小屋は冬ごもりでトイレは使えないかもしれない、どこか用を足せるようなところはあるか、私は積雪を漕ぎながらあたりを見渡してみた。すると、踏み固められた雪の山道の一部に人ひとり入り込めそうなくぼみが目に入った。そこは1m四方くらいの広さがあり、雪は踏み固められてある不思議な空間で、なぜここにこの空間が存在するのかは理解出来てはいなかったが、小便をするにはもってこいの場所であった。この雪の世界、本日ここですれ違った登山者は3人ほど、これから登ってくる登山者はそうはいないだろう。そう思った私は早速その小さな空間に入り込み小便をしたのである。山の神様ごめんなさい、と、心で手を合わせながら。

すると後方から小さな熊鈴の音が聞こえた。まさか登山者か?いやこれは私のリュックの後方に付けてある自分の熊鈴の音だろう、この風に反応した私の鈴に違いない、あまりに近いその音にそう思った私はそのまま、たまりにたまった小便を放出し続ける。

またカランカランと熊鈴が鳴る。この風では仕方がない。

小便を出し切った私はおもむろにファスナーを引き上げる。そして振り返って、驚いた。

女性登山者が立っていたのである。私のすぐ後ろで私の方に向かって手を合わせるのである。「うわっ」思わず声が出た私。

私の頭の中は混乱しそれでも思考回路は高速で回転している。なんなんだ、これは。

その女性登山者は合わせた手のまま私を見てにこりとほほ笑んだ。

私もにこりと微笑み返した、エチケットである。

そして私は私の前方を注視してみた、そこには頭部をちょこんと出した石碑が立っていた。もしかすれば、これは山の神様のやつか、ここで理解が出来た。ここはこの石碑に向かって拝むための空間だったのか。急に恥ずかしくなった私は「すいません」と一言言って再びにこりと微笑みを繕い、と同時に両手で雪をかき下ろして足元の小便後を瞬時にかき消した。

再び後ろを振り向くと、すでにその女性登山者の姿は無かった。山道に出て見ると彼女は山頂方面に向かって力強く歩んでいた。美しい人だった。

残念なところを見られたものだ、と思った。あの微かな熊鈴の音が聞こえていたあたりにはあの女性登山者は私の後方にすぐに立っていたのだろう。それを知らずにじょぼじょぼと、そう考えるとまた恥ずかしさがぶり返してきた。

人生は予測困難なことばかりだ、気を付けなければいけない。

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