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第206話  白神岳を歩く

  登山をするようになって15年が経つ。
きっかけはドライブ途中に立ち寄った階上岳の麓駐車場にたまたま車を止めたことだった。その停車中の車中からふと空を見上げるとその遥かな青空の末端に階上岳の山頂がポコリと存在していた。昔から見ていた山だから新鮮と言うよりは身近な山と言ってよかったが、それでも鮮やかだった。ただ、今まで登ったことは無かったしまた登ってみようなどと思ったことも無かった、その時までは。
そしてその時、私はどうにかしていたのだ、何も考えずに登ったのだから。
Tシャツにジーンズそしてスニーカー、そんな街歩きの恰好で登ったのだが、いつの間にか頂上に到着していた。全くの無心だった、それがまた格別心地よかった。
それからはあちらこちらの山と自然に向き合うようになっていた。
そしてあれから15年経った今、とうとう「白神岳」に向かったのである。
白神岳の登山口駐車場、空は青々と高く絶好の天気だ、が、気温は上がりそうだ。
準備を整え登山口から1歩踏み出す。どこの山にでもある登山道然とした道を進む。数キロその道を進むと途中登山道はふたつに分かれていた。
心に決めていた「二股コース」を選択、右側に進むコースだ。
そのコースを進んで100mも歩んだあたりか、周りの様相はさっきまでの登山道の様子とは少し違っていた。道幅はかなり細くなりそれほど人が頻繁に通っているとは思えないほど質素で、なんとなく道があると言った具合。そのなんとなくの細い道をすっぽりと覆うように雑草が生えているから戸惑う。
その代わりと言っては何だが、ところどころ進むべき道の先々の木々にピンク色のビニールテープが巻かれている。まるで宝探しでもしているかのように私はきょろきょろとあたりを見渡して進んで行く。1時間も進んだろうか、この道を歩いているのは今私ひとりだろう、そんな感じがした。なぜなら、人の気配を全く感じ取ることが出来なかったからだ。
しばらく進むと水の流れる沢にたどり着いた。沢はコケに覆われた倒木などが手つかずの状態で転がっていて、まさに自然そのままと言った風情だ。今まで経験のない大自然の内側に入った、と言った感覚。そして静かだ。心に染み入る静けさの真っただ中にいる。
沢を渡りその先を探すが続く道など眼前には見当たらず、例のピンクのテープを探して進む。登山と言うよりは探索と言った方がしっくりとくるようだ。3つ目の大きな沢を過ぎてしばらく進むと急な登りがやってきた。なかなかの急坂だ。
設置されているロープを握りしめて登っていく。全く初めての山だし全く初めてのコース、私の現在地はどのあたりなのか、ここにいる私にはまったく見当が付かなかった。
しばらく、登った。
途中のぼせる程に体が熱くなり、Tシャツからタンクトップに着替えた。やはり気温が上昇しているようだ。ロープの道はまだまだ続きそうだ、そして人の気配はやはりない。時計を見ると山に入ってから3時間が経過していた。
私がここに来る前に参考として見ていたここの簡易地図を思い出す。それを見て、私は確か3時間ほどで頂上に到達出来るだろうと考えていた、と思う。しかしすでにその3時間が過ぎているようだ。これはおかしいと思った私は、携帯写真に収めていたその簡易地図を映し出して確認してみた。
完全に私の確認ミスだった。登りのトータル時間は休憩をはさんで6時間ほどのコース目安と記してあった。それを見てやや心が腑抜けた。まだまだほんの途中ではないか。
気持ちの整理をするために新しい水筒を取り出し新鮮なアイスコーヒーを口に含んだ。汗が額を伝う、そこで、もしものために持参していたもう一枚のタンクトップに着替えた。さすがにもう着替えは持ってはいない。10分程座り込み休憩を取った。
その後私はひたすら登り続けた。これほど急坂の続く山は、初めてだった。ロープが無ければ登れない角度だ。孤独は嫌いではないが、過度の疲労感と溶けるような灼熱とプチ絶望感の中では人恋しくなる。
どれほど登ったのだろう、ロープを握りしめて登って進む道なき道が次から次からと続く。手がロープで擦れて血がにじんでいる。だがこんなところでひるんでいる訳にはいかない。気持ちを高めて登り続ける。
前方に1本の道標が姿を表した。先ほど確認した簡易地図に絵で描かれてあった道標にそれは違いなかった。もうすぐ先に頂上がある印であった。それを目にした私の心は踊った。もうすぐこの過酷な坂道も終わるのだ、そう思うと張りつめていた気持ちが緩む。
そんな時だった。
「ブーーーーーン」
昔聞いた事のある、恐ろしい羽音が私の耳横を通り過ぎた。十和田湖1周徒歩の旅をひとり決行していた十数年前にスズメバチに襲われた恐怖の体験が蘇る。リュックを背負った私は、500mほどを転がりながら逃げ回り、何とかその恐怖から逃げ切った苦い記憶だ。
その時の教訓として自身に備わっていた、スズメバチは振り払ってはいけないという事を実践して私はその場にじっと留まった。動いてはいけない。奴は私の周りを前後左右に行き来しては飛び続けている。じっとしなくては、私は固まったモノのように動かないように努める。奴は何を思ったか数回周回した後、飛ぶのを休止し私の頭部に着地したのだ。これは予想外だった、今まで経験のない不慮の出来事に私はとっさに手で奴を払ってしまったのである。さぁ大変、奴はその行為に激怒、目の色変えて襲い掛かってきたのである。こんなところに留まっている場合いではなくなった私は、頂上までの急坂を最後の力を振り絞って這い上がったのである。草に覆われた道だったので、その中側に沈み込むような中腰の格好で懸命に、必死に、上へ上へと突き進んだ。残った体力のほぼをこの劇的場面で使い果たしたのだった。
歩くには全くもって邪魔な、背丈のあるその雑草達がすっぽりと私を覆ってくれたおかげでなんとかこの窮場を凌げたのである。いつの間にか奴はどこかに消えていた、助かった。
頭を上げると、先には白神岳の頂上を表示する木板が立っているのが見えた。
どうやらやっと登り切ったようである。時計を見ると5時間ほどの時間を費やしていた。とにかくホッとした、それしかなかった。
ひと息ついて前方を見渡すと、先にトイレの建物が見えた。
その方向に歩き出す、と、再びあの恐怖の羽音が私を襲ってきたのである。奴は私を未だ探していたのだ。ヘロヘロの残り少ない体力を総動員してトイレまで走った。トイレのドアを開けてイン、すぐさまドアを閉めた。
その眼前には、悔しそうに羽音を響かせぐるぐるとあたりを飛び回る巨大な奴の姿がガラス越しにあった。私はしばらくの間そのトイレで過ごす羽目になったが、助かったことには感謝しかなかった。とにかく奴はしつこかった。ドア前から居なくなってはまたやって来るを何度も何度も繰り返していた。
そしてとうとう諦めたか、と思われる頃合いを見計らって私はそのトイレを飛び出したのである。そして登ってきた反対側の方向へと進路を変えて突っ走った。
来た道を戻って下山しては奴にまた会いそうで危険と判断した私は、最終的に元の道に合流できる、地図で見ていた反対側のマテ山道を下りることを選んだのである。
ひとつ思い出したことがあった。スズメバチは黒いものに飛びつく習性があるという事だ。あまりの暑さに脱いでしまっていた白いキャップをポケットから取り出しかぶった。黒い頭を見せないことが今大事なことかもしれない。
そのまま所々に設置してある道しるべを頼りにその道を下りた。その後何度か奴はやってきたがじっとしているとどこかへと消えていった。キャップのおかげなのかははっきりとわからないが、どうにかやり過ごすことが出来た。本当に良かった。
下りは軽快に進むことが出来た。
登って来た道とはまったく別物でスムースに下ることが出来た。
この山には得体のしれない何かが存在しているのを私は感じることが出来ていた。今までの山では感じることのなかった何か。決してそれは恐ろしいものではなく、大らかに包み込んでくれる慈愛のような何か。言葉ではうまく言い表せない感覚的な平穏をもたらす不思議な何かだ。
スズメバチ対策をしっかりと準備し、再び向かってみようと考えている。

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