Column

第196話  知られざるカリスマ

  スーパーマーケットは誰にとってもやはり無くてはならない存在だろう。それこそ食材をメインに生活必需品などの購入のためにも毎日のように利用するところであることは間違いない。ここ八戸でも地元及び全国区交えて複数のスーパーマーケット運営会社が存在し、それぞれが各地区にたくさんの店舗を構えて営業している。
そんな各スーパーマーケット店舗には、これまたたくさんのレジ係が存在する。各社それぞれの教育を受けたスペシャリストがそのレジを打つ。
以前は、お釣りなどは札も小銭もそしてレシートなどもいっきにもらっていたものだが、現在では先に札をもらい、分けて次に小銭とレシートをもらう形が主流となっていて、随分とサイフに戻す行為が楽になった。(現在はコロナの影響で手渡しの釣銭は少ないが・・)
前々から、札小銭一緒の返金はもらった方が手間だろうと考えていた私は、自身では(職種は違うが)先に札を返してから次に小銭を返す形をずっととっていたので、これはとても良い変化だと感心する。ただ、そのお釣りが場合によっては札だけの時もある。その時、札の上にレシートを乗せて一緒に返されることが現在でも常である。レシートをサイフに押し込む習慣のない私にとっては、一度それを一緒に受け取り、札の上からそのレシートだけをいったんカゴに落とし、それから札を財布に入れることになるのでまったくやりにくい。最初に札から渡してくれて次にレシートを渡してくれるレジ係は私の経験ではほんのひと握り、知る限り数人程度しか存在しない。
現在では有料化になっているレジ袋、それは私的には必需品である。なぜならば、食毎に出る生ごみや油分をふき取ったティッシュなどを入れるために使っている。だからレジに並んだ時にはレジ横にセットしてあるレジ袋必要カードを手に取り買い物カゴに入れる。気の利いたレジ係は先にそのレジ袋代をレジ打ちし、それから買ったものを順次に打っていく。私はそのタイミングで小銭入れからすべての小銭を手の平に出しては1円玉5円玉をピックし現在その小銭はいくらあるのかを数える。最後の商品のレジが打たれた瞬間に出る電光掲示の小銭分をより分け、先に受け皿に出しておいた札の上にそれを出す。細かいお金がここで利用できたことにちょっとした嬉しさが湧きあがる。
ただ、最初にレジ袋代をレジ打ちしてくれるレジ係は、だいたい3割と言ったところか。いやそれよりも少ないかもしれない。どこのスーパーを見てもこれに関して統一性はない。個々に任してあるのが現状だろう。
私のタイミングで小銭を用意し、最後の商品がレジ打ちされて小銭をピックしているところに、最後「レジ袋代を入れて、〇〇〇円です」と言われた時の気持ちの落胆と言ったらひどいものだ。最後の2円3円違ったら数字が全く違ったものに変化してしまい、手のひらで積み上げてきたものが全くの無になることもしばしばである。
「マジか」、心の中で曇りがちにつぶやく。(キャッシュレス時代に突入中だが、あたりを見渡すとスーパーは未だキャッシュの方が主流かもしれない)
そしてそのレジ袋に関してなのだが、とにかく開きづらい。薄くぴったりと張り付いていてなにか濡れたものを指先に触れさせてからでなければ到底それは口を開いてはくれない。
昭和時代の老人のように指差をなめてから、という行為はみっともないのでやめておこう。
ところが、そのレジ袋を客がすぐに口を開けやすいようにしてくれているレジ係がたったひとりだけ存在する。あちこち数多くのスーパーマーケットを利用している中で、私の知る限りではその人だけである。まずレジ袋を1枚棚の束から取り出すとそれを半分に折った形でカゴの片側に掛ける、それから最初に袋代をレジ打ちする。カゴの中のすべての商品のレジ打ちが澄んだ後、金額を私に告げるとそのカゴの片側に掛かっているレジ袋の開け口側を指でこすって半口開けてくれるのである。
この人は今まで並べたそれぞれのやり方に関してもパーフェクトであり、このあたりでは唯一無二の存在であることは間違いないだろう。もちろん接客も品がありそつなく丁寧である。そんな人がそんなパーフェクトな形でレジを担っているのにもかかわらず、ほかのレジマスター達はそれを学習しまねることも無くそれぞれがそれなりのやり方で作業をしている。つまりその人はそれが良かれと自己判断し自分独自のやり方を構築してやっていると言える。まったく自然な形で。
時代と共にカリスマ性の定義も変わっていくのだろうが、昨今私の中でのその人は、ひっそりとそこに存在するレジのカリスマである。

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