Column

第194話  マグロはお好き?

  その時私はどうにかしていた。
ちょい昔のある時、古い友人の弟が私を訪ねてきたことがあった。聞けば現在、神奈川県在住でアウトドア系の商品の企画などを主な業務とする会社をやっているらしい。釣りに関しても精通していて、釣り雑誌の旅の企画などにも参加していて紀行文や写真なども提供しているとの事だった。たいしたものだ、とつくづく思った。幼いころはスキーに夢中になっていた彼の姿しか記憶に無かった私にとっては、まるで一瞬にして時代がスライドしてそこに映し出されたような不思議な感覚に捕らわれていた。
「今回釣りの取材で青森県内をあちこち回ってて、ちょうど昨日でそれも終了したので以前から噂で聞いていたマグロ丼のうまい店に行ってきたんだよ、知ってる?」
ひと通りの世間話が終わりを告げてきていたあたりにそう彼は言った。
私としては一向に耳にしたことのない店名だった。
「知らないな~随分と有名みたいだけど聞いたこともないよ、で、どうだった、うまかった?」
「うまかったうまかった、ペロリ完食したよ、今度行ってみればいいよそんなに遠くないんだから」
「そうだな、Tがそう言うなら今度向こう方面通った時にでも寄ってみるよ」
そんな会話のあった日からひと月、そのチャンスが訪れた。
聞いていたので場所はだいたいわかる。
それらしい店の駐車場へと車を滑らす。午前11時だと言うのに駐車場は車で一杯だった。
やはり人気店であることは間違いないらしい。
店内も確かに混んでいた。私は中央にある4人掛けのテーブルが一つ空いていたのでそこに腰掛け、そのタイミングで水をもってきてくれたスタッフの女性に例のマグロ丼を注文した。
入店してすぐだったので値段は気にせず注文したのだが、その店の壁に張り出してあるメニュー表の値段を見て少しばかり驚いた。仮に都内であれば安価に感じる値段かもしれないが、地方でこれはとても昼食で使う値段ではなかった。
「やはりそれなりにするもんだ、やれやれ」そう心の中でため息をひとつ。
あたりを見渡すとマグロ丼以外の方々も多いのに気が付いた。丼の上に全長30cmはあろうかと思われる長さの天ぷらが乗っているのがひとつ見えたが、どう見てもそれはアナゴ丼だろうと思った。うまそうだった。
そっちにすれば良かったか・・・なんて思っているところに私のマグロ丼がやって来た。
そのマグロ丼を見て、私は随分と驚いてしまった。この店に入って2度目の驚愕だ。
丼は、漫画盛ほどにマグロがこんもりと二等辺三角形を模するように形成されていた。盛り込まれた色とりどりのマグロ以外、ご飯などは全く見えてはいなかった。
私はすぐさま感じ取った、「食えない」と。
そう言えば、私はそれほど生ものが得意なほうではなった。刺身だって2~3切れもあれば満足だった。寿司ならあれこれと酒を飲みながらつまむこともできるが、これはこのままいっきに食わなければならない。正直、これを目にしただけですでに満足だった。
しかし、なかなかの値段を払わなければならない。
私は意を決して、目の前に置かれている小皿に醤油をたっぷりと注ぎ込み、丼のてっぺんに盛ってあるワサビを箸ですくい取り、その醤油の海へと放り込んだ。
取り合えず、一番上のマグロ刺し1枚をワサビ醤油にくぐらせ口の中に滑らせた。いつもならするりと喉を通っていくマグロの塊が喉に引っかかる。水をひと飲み。
付けていないことが重々わかる。無理だ、そう体が言っている。いっそドギーバックをもらって持ち帰ろうか、いやこいつは生もの、しかも季節は夏だ、店側は食中毒の危険もあるから拒否するだろう。
仕方なく私は2枚目を頑張って口に入れた。するとどうだ、胃がしぼみ、吐き気がしてきた。自分でもどうしたのか分からなかった。かつて目にしたことも無い真っ赤な生ものの塊に心がやられてしまっているのか。それも気弱な胃に水で流し込んだ。
もう帰ろうか、しかしこのままでは店の人に失礼ではないか、と、私は3枚目を取り、そして口入れた。喉の奥に指を入れた程に急激な吐き気が襲ってきた。
「うっ」我慢しろ、口を押え自分に言い聞かせた。
それもなんとか只今絶賛拒絶中の胃へと水で流し込んだ。
あたりに目をやると、皆それぞれの食べ物をうまそうに食っている。羨ましい限りだ、こんちくしょう。これ以上、すでに我に返ってしまった私には無理だった。
大量の生ものは得意ではないことぐらい百も承知だったはずだ。私はやはりどうにかしていたのだった。そしてとうとう私は席を立った。
私の目の前にひっそりと佇むマグロ丼は、そこに置かれた時とほぼ同じ形を保っているように見えた。何ならこのまま誰かに出しても誰も気づくまい、そう思えるほどにきれいな形のままだった。ごめん、マグロの断片たちよ、そしてまだ会えてもいないご飯よ、優柔不断な私はそう心から謝った。
すっと席を立ち、しっかり食しそして満足した風を装い、レジで会計を済ませ、逃げるようにその店を後にした。後悔は全くなかった。ただ、しばらくマグロはいらないかもしれない。
車に戻ると、空腹の私がそこにいることに驚いた。
劇的に穏やかな環境の変化に体はいつもの私のものへと戻っていた。
帰り、ラーメンでも食って帰ろう。

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