Column

第179話  いい日に

  人間、まだまだ短くてもそれなりに長くても懸命に生きていれば心穏やかな日もあれば心の重い日だって当然ある。
毎日が楽しく、ワクワクするような時が続いてくれればそれに越したことはないのだが、そうはいかないのが人生。毎月決まって巡りくるドキドキ仕入れの支払いが近づいてきたり、設備等の思わぬアクシデントに見舞われての突然の出費などなど、毎日がこれハラハラの連続。そんなんだから、たまには心も疲弊する。

かれこれと長く続く早朝のランニング。この日もそんな気分のさえない日であった。
そんな日であったから、いつもの出発時間より30分ほど遅れてしまっていた。
ジャージに着替えて軽い準備運動のあとにゆっくりと走り出す。
出発の海岸ラインを越えてから軽い下り坂に入る。そのあたりになると民家が点在する。
右手には旧式の大きな日本家屋があり、左手には現在はすでに廃業しているレストランの、古びてはいるが瀟洒な建物が建っている。
私の位置からはやや先に見えているそのレストランの、赤茶のレンガを積み上げた2本立つ大きな門柱の前を、ふたりのおばあさんが転ばないようにゆっくりゆっくりと手をつないで歩いているのが見えた。遠目ながら、標準的な建物との対比からしてとても小さなおばあさん達で、不思議な感じがした。
ふたりとも白い頭巾を頭にかぶり、色違いの同じ形の半纏に同色のもんぺのようなゆるいパンツをはいている。手をつないだままふたり左右に揺れながら躍るように歩いている。その普段着仕様の格好で歩いているのだから、どう考えてもこのあたりの住人だろう。
今朝、私はいつもよりだいぶ遅く出発していたので、時間のずれなのだろうまったく初めて会うおばあさん達だった。
そのふたりを遠目に見ながら、私は再び右前方に広がる海岸ラインに進路を変えた。
砂浜を越え、松林を越えそして小さな駐車場でUターンする。ショートコースだ。
このあたりを走っていても、先ほど会ったあのとても小さなおばあさん達の姿が頭を離れない。帰りのルートはあのレストランの前を通る。いるかどうかはわからないがとにかく向かおう。
しばらく走るとそのレストランの建物が前方に姿を現した。あたりに人影は見えない。やはりもうどこかへ向かったかそれともすでに家にでも帰ったか。仕方がない。
私はそのまま走り続けた。その道は登板になっていてなかなかきつい。
徐々にレストランの玄関先に近づく。
そのまま進むと、レンガの門柱と門柱の間にスリッパをはいたふたり分の小さな足がちょこんと並んで見えた。あの小さなおばあさん達は門柱の間にあるレンガを積み上げた階段の中程にちょこんと並んで座っていた。何だかわからないが、嬉しかった。そばで見ると益々小さくそしてチャーミングなおばあさん達だった。
「おはようございます」私は大きな声であいさつをした。
「おはようございます」
ふたりはハモルように初対面の私に親しみの笑顔をくれた。
さっきまでもやもやしていた心の暗雲は不思議なことに、するりと晴れた。
ほっこりとしたほんのちょっとの出来事で心の持ちようは変わる。後ろを振り返るとすでにそのふたりの姿は視界から外れていて見えない。なんだかあのふたり、この美しい海岸の妖精なのかもしれない、と思った。
本日のランニングノルマも終盤、もう少しで家へとたどり着く。
出発時間の遅くなったことで、今度は近所の小学生の集団登校と出会った。
「おはよう!」
「おはようございます」
元気な声が大海原を渡る。
きっと今日は、いい日になるだろう。

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