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第176話  自転車を買おう

  休日の夕方、プールでひと泳ぎしてきて家に戻り冷蔵庫から缶ビールを取り出してひと口のどを通す。熟成されたホップの香りがふわり鼻孔を抜ける。「うまい」このいっぱいのうまさは何物にも代えがたい。ソファに腰を下ろすと全身の筋肉がたらりとゆるむ。
テーブルの上にあるテレビのリモコンを手に取り、スイッチをONにする。ちょうど家を出る前に見ていたNHKの画面が浮かびあがる、どうやらそれはニュースのようだった。
そろそろ巷では雪も解け、新卒入学の季節がやってくるとのフレーズ。
郊外型の大きなホームセンターが画面いっぱいに映し出され、これからが旬なのだろう広いスペースをとって各種自転車がスタイル別にずらりと並んでいる。
その画面の中央付近に小学校低学年くらいの男の子と、おそらく祖父?らしい男性と一緒に自転車を選んでいる様子がうかがえる。
自転車を真剣に覗き込むその男の子の眼はキラキラと輝いている。ハンドルを握ってみたりサドルにまたがってみたりともう心はここにしかない。よっぽど嬉しいのだろう、その小さな体全体の動きからワクワクと浮きたつ気持ちがこちら側にも伝わってくる。その傍らで祖父らしき男性は無言ながら慈愛に満ちた笑顔でその姿を見守る。将来面倒見ろよ的下心なんて微塵もない。
そうだった。
私の場合は小学校6年生の時だった。友達皆が乗っている「フラッシャー」付きのやつが欲しかった。それらは華美なデザイン故とても高価なものだった。
この4月から中学生になるという事でそのフラッシャー付き自転車を買ってもらえることになった私、希望がキラキラ満ち溢れるほどにうれしかった。明日それを買いに行くことになったその日の夜は興奮から眠れずにとうとう明け方まで起きていて、起きなければいけない時間あたりにやっと眠りについた。
自転車屋は同級生の父親が営む店で当然のように父親同士は知り合いであった。「これどうだ、値段はひいとく」と言っているのが後方から私の耳に届いていた。恐らく私の父親に友人の父親がささやいたのだろう。そのすぐあとこちらに移動してきた同級生の父親が指さした一台はその一群の自転車の中でも群を抜いてかっこよかった。すくなくとも私にはそう映った。美しい形状のドロップハンドルにぶら下がっている値札の値段は6万円、とんでもなく高い。今から半世紀ほど前の事だからまぎれもなく超高級車だ。ただ、傍でじっくり覗いてみると、あちらこちらに薄茶色の点々の錆が浮かんでいるのが見えた。ちょっと、いや、まあまあ古い?子供ながらにちょっぴりとそう感じたし、実際にもそうだったに違いない。これは昨年物とかではない、数年前の在庫品。高すぎて売れ残り、翌年には型落ちで残り翌々年もさらに売れ残ってしまった自転車。どれくらい勉強してくれたかは定かではない。
「それどうだ、それにするか」
父親はそう言って私を見た。
「うん」
どうやら父親同士のあいだで買う自転車はこれに決まっていたように感じた私は、ひと呼吸おいてそう答えた。ただ、古いにせよやはりデザイン的この自転車は私の好みに合っていた。だから、やはり嬉しかった。錆なんかどんな新品だってすぐに浮かぶものさ、問題ない。
自転車を決めてそのまま押して帰るとき、その店の玄関先で飼っていた狸が警戒しながらこちらを覗いていた。この店では野生のタヌキをペットにしていた、今では考えられない光景だ。その狸の周りには相変わらずの悪臭が漂っていた。
自転車を手に入れてからの私は限りなく自由だった。錆はタオルで拭いてみてもとれなかったが、それ以上広がることもなかった。ハンドルやペダルをカスタムしたり遠出をしてみたりとこの自転車には十二分に楽しませてもらったことを思い出す。
そうだ、幼いあの子たちにも時が来たら自転車を買ってやろう。
しかし、押しつけはだめだ、なんでもそうだが向こうから欲しいと言った時に買ってやろう、それがいい。
テレビ画面の中の男の子は、どうやらめぼしいものが見つかったようだ。一台の自転車の前、満面の笑みがそこにあった。よかったね気に入ったやつが見つかって。
きっとその自転車は君の親友と呼べるほどに大きな存在になると思うよ。

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