Column

第160話  アクシデントは突然に

  「自分、このパンを食べたらこのまま山を下ります。」
予想外の雪がたっぷりと積もってはいたが、この上ない晴天に映し出された岩手山山頂からの絶景と山頂そのものの美しさを堪能できた私たちは、そこから1キロほど下った所にポツリと建つ避難小屋で一旦休憩、ここで食事を済ませた私は、途中合流してからここまで行動を共にしてきたA木さんへとそう声を掛けた。
「あそっ、私はこのカップラーメンを食べてから下りるよ、この塩分とか何やらがいいんだろうね疲れた体に、元気が出るよ。それじゃあ気を付けて」
カップラーメンに、たった今沸かしたばかりのお湯を注いでからA木さんは言った。
「今回は本当にありがとうございました、お世話になりました。またどこかでお会いできることを願っています。それじゃあお先に」
そんな挨拶を交わして私はそのまま避難小屋を後にした。
雪は積もっているものの、私たちの登ってきた足跡がくっきりと残っているので一人の下山でも安心感はある。登るときに先頭を歩いてくれたA木さんの後をたどって登ってきていたので、まるでたった一人の人間が登ってきているかのような足跡が続いている。
やや内また気味な感覚でその雪に埋もれた足跡をたどって下る。
A木さんが登ってきたルートが「焼き走り」のルートと合流していた地点を間違わないように、と思いながら一歩一歩進む。登りもなかなかのきつさだったが、これまた下りは雪に足を取られて滑る、しっかりと踏みしめないと危険だ。前方にくっきりと続くその足跡を凝視し進む。油断禁物、あたりを見ている余裕などない。もうすでに履き古された私のトレッキングシューズは水分を吸収してしまい内部はたっぷりと湿ってしまっている。登りではシューズに付着した雪を払い払い気を使って歩いてはいたが、ここからはもう下るだけだ、気を遣わずに雪をこぎ進むことにした。
目の前にある足跡をなぞるようにどんどんと進む。下るタイミングとペースをつかんだ私はどんどんとスピードを上げて下る。調子は良い。登山口までたどり着いたら、すぐそばの温泉でひとっ風呂浴びてご当地ラーメンでも食して帰るか、そんな思いを抱きつつ歩を進める。
ちょっと待てよ、例の分岐点はまだなのか、かれこれ1時間は下っているはずだ。こんなに下ってからだったっけ?もう少しか?考えながらもさらに進む。
気を付けながらさらに数十分、このあたりでようやく気が付いた。
足跡がいつの間にかたった一人だけのものになっている。登るときにいくら私がA木さんの足跡の上をなぞるように歩いていたとしたってここまでぴったりと合うはずもなかろうに。「しまった」気づいた時にはすでにかなり下っていた。ここからまた再び登っていく時間と気力は、無い。
足元ばかりに気を付けて歩いてきていた私は、ここであたりをぐるり見渡した。登ってきた焼き走りルートの景色とは全くの別物、焼き走りの山道は広葉樹の群生する地帯だったがここは針葉樹が群生していて、まるで違う山に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。
足跡はひとつ、このルートはA木さんが登ってきたルートで間違いないだろう。よし、このままここを下ってこのルートの登山口まで向かい、そこでどうするか考えよう。
私はかつて目にしたこともない山道をひたすら下った。徐々に雪は薄くなり、やがて足跡は消え去った。ここまで下りてくると道らしい道が目の前に姿を現し、気は楽になった。
道は平たんになり、木々の隙間から、前方に開けた空間があるのが見えた。おそらくそのあたりが山道の入り口であり駐車場なのだろう、ブルーの小型車が一台停車してあるのも見えた。それはA木さんの車なのだろうと察しがついた。その駐車場でもある薄暗い空間にたどり着き、正直ほっとした。「上房登山口」の小さな看板が目に入った。薄暗いのは、その空間は未だ山間部の内部に存在してあるらしく、あたりにはやはり空を覆う背の高い木々が生い茂り、とても安心できる環境にはなかったのである。
山道の入口に着けばあとは簡単になんとかなるだろうと気軽に考えていたのだがしかし、ここからがまた苦難と言ってよかった。
この駐車空間から、車が一台通ればギリギリ幅の山道が、前方に1本と右側に1本の2本見えた。どちらも木々に覆われ先は見えない。果たしてどちらに向かえばよいのだろう。私はしばし考えた。そして私は素直にまっすぐ進むことを決断した。まだ時間は十分にある、間違えたらまた戻ればいい。
歩けど歩けど山道は続く。すでに1キロは歩いているはずだ。私は再び山の深層部へと向かっているような感覚にとらわれる。本当にこっちで良いのか。
すると遥か前方に伐採した木々を積んである大きな空間が見えてきた。
「そこが本当の出口か?」
私は歩を進めた。
その空間はあたりの木を伐採して出来たサッカー場ほどの空間で、どこかの会社の持ち物と言った風情で、立ち入ってはいけないような雰囲気を醸し出していた。
行きどまり?
すでに2キロほど歩いていたが、やはり戻った方がよさそうだ。私は踵を返し、ため息をひとつ。本当に今日中に帰れるのか?そんな思いを胸に逆戻りしながら、未練たらたらその空間を振り返えって見る。すると、先ほどの位置では見えなかった空間の片隅の方に小さな道があるのに気がついた。「あれは、道か?」まさか、どれどれと私はもう一度その場所へと戻ってみると陰に隠れた山道が現れた。
どうせここまで来たのだ、道があるのならもう少し進んでみよう。
そこもやはり背の高い木々に覆われた山道であり先があるのか無いのか解らない。とにかく進む、まだまだ時間はあるさと自身に言い聞かせながら。
前方に、再び木々の伐採された空間が姿を現した。
左側に道が1本、カーブを描くように右側に1本の道があった。果たして今度はどっちだ?
まいったもんだ、と天を仰ぐ。
「んっ」視線の先に電柱が見えた。
そうか、これだ。電柱は右側の道に沿って電線とつながっている。
右へ進もう、私はその電線の続く道を選択し進むことにした
半信半疑ながらもしばらく歩いていると、遥か前方に待ちわびた幹線道路が見えてきた。
「やったー!」
こっちで良かったのだと胸をなでおろした。
ここまでくればなんとかなる。「焼き走り」ルートを間違えて道を左に折れたわけだから、ここからは右へ右へと進めばたどり着けるはずだ。そのきれいに舗装された道路に出た私は右へと進路を変えてひたすら歩いた。山の中よりは心は軽い。
完成したばかりなのかこの道路、本当にきれいだ。そのわりにどういう訳か車の通りは少ない。まあいいか、そんなことはどうでも。ひたひたと足は軽い。
そんな時だった。
「ブッブー!」
私の後方で軽いクラクションの音が響いた。
「なんだ?」と振り返るとそれは、あの上房登山道の駐車場に止めてあったブルーの小型車であった。
「えっA木さん?」
下山時、A木さんは自身の登ってきたルートに、あるはずのない下山している足跡を発見、すかさず私が間違えたのだと判断、急いで下山し迷っていなかと心配して駆けつけてくれたのであった。ありがたい事このうえない。
私はその車に救われ、無事に「焼き走り登山口」に着くことが出来た。
数時間前に出会ったばかりで、見ず知らずと言っていい私のためにわざわざとありがたい気持ちでいっぱいになった。感謝の気持ちの中に、岩手山の魅力がまたひとつ増えたような気がした。私事としては、大雑把ではなく、繊細にあたりに気を配り行動出来るようまだまだ精進しなくてはならない、そう胸に刻んだ一日となった。
まだまだ明るい午後2時の岩手山上空は、やはり雲ひとつなかった

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