Column

第130話  第34回うみねこマラソン大会

  どうやら調子はいいようだ。
力みなぎる軽快な体の動きに一安心、こうなればどうしても昨年のタイムを大幅に上回りたいものだ。残念ながら今年は出場を断念した「スタジオオリベ、田村」氏の昨年の記録がちらりほらりと脳裏を翻る。
今冬は例年の雪もまったくと言っていい程に姿を見せず、奇跡的な積雪のない冬季を過ごすことによって走りに関してはベストともいえる環境を与えられていた。北国と呼ばれているこの地方では滅多にない温暖な冬だった。よって、走り込みも十分に出来ている。
ドーン!
号砲とともにいっせいに皆が走り出す。
数分後、どんよりと重い空が泣き出した。風に雨、一時的ながらものすごい勢いで私たちに襲い掛かってくる。懸命に前へと進むが押し戻されそうな勢いだ。とんでもない天候の変化に不安が過ぎる。
「皆も同じではないか」自身に言い聞かせて一歩一歩突き進む。
この地点、まだまだスタートから2、3キロくらいの言わば序盤、だが、なんだか全身に疲労感が漂う。いったいどうしたのだろう、あれほど調子は良かったはずなのに。
強い風に雨雲が流されたのか、すぐにまた青空が天上に満ちる。
「イカ」が私の横を軽々と追い越して、そして元気よく過ぎ去る。
息が乱れる、足が重い、肩が凝る、なにくそ、あの「イカ」に着いていかなければ、私は思いもよらぬ不調に見舞われながらも少しばかりスピードを上げた。
しかし「イカ」の被物をした方は早い、みるみるその姿は私の視界から遠のきそして消えていく。気持ちがくじけそうになる。
その時、私の後方右側、苦しそうに咳をしながら走る人が近づいてきていた。7、8秒に一回の割合で2度3度と咳を繰り返す。私の疲労感はさて置き、この人はこの過酷な状況を走りこんでいて大丈夫なのか、と心配になる。ゴホッゴホッ、と咳を繰り返し止まらない。
このままこの苦しそうな咳を耳にしていては私自身の調子が乱れそうだ、先は長いがあの「イカ」を追うつもりで頑張ってみよう。
私はさらにスピードを上げて走った。
いつもならこのくらいの距離ではそれ程大きな疲労感には包まれたことなどないのだが、やけに厳しい。走る前に調子のいいのも良し悪しと言っていいのかもしれない。
ようやく咳が聞こえなくなった先に中間の折り返し地点が見えてきた。ここまでは時間ロスを考えて給水しておらず、少しばかりのどが渇いてきていた。その折り返しを回り込んだらそこにある給水所で給水しよう。
前を走るほとんどの人々が給水のために、水がなみなみと注がれた白い紙コップを手に取り、グイッと喉に流し込む。私もひとつの紙コップを手に取り、しっかりと喉を潤すために立ち止った。走りながら飲もうとするといつも気管に水が入り込んでむせるからだ。
ドンッ!
私の右肩を誰かの腕が突いてきた。不意打ちに、私はよろりと前方によろける。
何を気遣うでもなくでもなく無言のままその人は私を追い抜きそして走り去って行く。
その人にとって、立ち止った私が邪魔だったのかもしれない、がしかし、ぶつかったら「ごめん」の一言くらい、人として大事なマナーではないのか。なんてやつだ、スポーツマンシップのスの字も持ちえていないではないか。
これは、できることなら何とか抜き去りたいものだ。
こんな時にいつも現れてくれる、私の萎えた気持ちを奮い立たせる誰かが。
しかしながら、軽快に走り去るその人にはなかなか追いつけるものではなかった。
頑張ってみたのだが先を考えると、終盤のための体力温存を考えるとこれくらいのスピードが限界なのかもしれない、と自制する。徐々に遠のくその背中を泣く泣く眺めているしかなかった。
中盤、太陽が姿をあらわにしてきていたものの、なんとまさかの天候急変、黒い雲が空全体を包み込んだかと思いきや、パチパチパチッと強風にあおられた雨が再び体を打ち出した。前進する体をぐいぐい押し返す、それによってスピードはやや落ちてはいるがこれしきのことに負けているわけにはいかない。歯を食いしばり腕を振りぬく。
幸いにもその風雨はすぐにも止んでくれた、火照った体にその冷たい雨がいい刺激となる。
このまま体力を温存して走っていても今のままの走りでは、昨年のタイムを短縮出来るはずもないだろう、覚醒した気力がそう考えさせた。
私は残る力を振り絞り最後のスパートへとギアをチェンジさせた。ゴール時に体力を残していても何の意味もないのだから。
前方数十メートルの路面だけを見つめるようにして、私は懸命に駆けた。
大きく湾岸の縁を3度ほど回る終盤の変形コースに差し掛かった。
そこに、いた。
例の私の肩をドンッと突いて走り去った男。
思いもよらぬ出会いではあったが、何の感慨もなく私は一気に抜き去った。
そしてそのままゴール。
2分30秒の短縮に成功した。
前半の情けない走りを考えるに、終盤の気持ちの切り替えがなければこの記録は達成できなかったはずだ。この他愛ない人生の縮図のような短い旅、つど出会った人々によって奮起させられ気持ちを取り戻してはなんとか軌道修正することができた。そんな出会いに感謝しなければならない。
やはり何事も気持ち、それが一番なのだ。

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