Column

第128話  さ迷う心

  買うべきか買わざるべきか、それが問題だ。
ちょくちょく宝くじに手を出してはや数十年、当たって3千円がせきのやま。それでもテレビから流れる宝くじのCMを目にすると、あっ、買わなければ、などと思ってしまう。まるでそれを買うのが当たり前のように習慣化してしまっている。
ちょっとまてよ、今更ながらそう思う。
盲目的に買い続けたきっかけはおそらくあれからだ。
かなり古い話になるが、一等賞二等賞や三等賞のほかに、人類の心くすぐる「いい車に買い換えようよ」的目的を含めたであろう「デラックスカー賞」なる600万円のあたり番号が付いたことがあった。当然当たった人が必ず車を買わなければいけないわけもなく、単純に600万円のあたりなのだが言葉のニュアンスが購買意欲をそそる
その宝くじの当選番号発表の朝、私は食卓に腰を下ろして新聞に目を落として驚いた。
デラックスカー賞の番号が、今私が手にしている10枚つづり三束の宝くじのなかの一枚と、なんとピタリ一致していたのである。私の瞳孔は力強くぱっかりと開かれ、やや筋肉の落ちかけた胸は高鳴った。
なんとなく買ってみた宝くじ、そんな偶発的でいてやる気の持てないでいる私のところにでも順番が回ってきたのか、宝くじというものは随分と簡単なものではないか。さらり紙上の連番を覗いだけの私は単純にそう思った。
しかし、世間はやはりそう甘いのもではなかった。
もうひとつの条件である、組番号の下一桁が整わなかったのである。
当選組番号は下一桁「6」、私の手にする宝くじの下一桁は「8」、絵的に似てはいるがやはりまったく別物なのだ。
もしかしてこの数字、印刷ミスではないのか?などと青い脳みそに疑問が噴出、一度宙に浮いた気持ちはどうしても収まらない。私はその疑惑を明らかなものにするために、その宝くじを買った店に向かったのである。
「ああ残念だね、それは印刷ミスでもなくハズレですよ、ハズレ。」
その無慈悲で残酷な言葉を聞かされた私はガックリと肩を落とし、そのままとぼとぼと家路についたのは言うまでもない。
それからである、そうか、もしかすれば当たりというものは案外身近にあるのかもしれない、そう思い始めたのは。
私の信条としては、随分前から何事も五分五分なのである。
複雑でいてあいまいな確率論ではなく、うまくいくかうまくいかないか、合格か不合格か、そして当たるか当たらないか、極めて簡単で単純なハーフハーフ。宝くじにおいても然り。当たるか当たらないかはふたつにひとつ、その頃からせっせと買い始めたのであった。
また、買えば買った分の損だが、買わなければ数億といった当たりの最高額の損になる、などといったふらちな格言に惑わされたところも大きい。
はたして今まで、宝くじにいくら位お金を使ったことだろう****見返りは未だないが。

よく考えてみると、宝くじとはていの良い税金のようなものなのかもしれない。心情五分五分とは言え、やはり当たらないのである。当たったらあれも欲しいこれも欲しいといった欲望を手玉にとっての集金だ。ただ、その集金した一部は社会的貢献にも役立ってはいるらしいが、私にははっきりとはわからない。
やはりそろそろ潮時か、かわいい小さな天使たちに何か喜ぶものでも買ってやったほうがいいに決まっている。だけど、買えばドカーンと、いやいや、ないない。
少しばかりやめてみよう、昔煙草を止めたみたいに。
それでも年一、年の暮れの奴だけは買ってみようかな?いやいや、また外れるだけだぞ。
うーん、どうしよう。

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