Column

第126話  大みそかの夜

  祖母は、幼い私に向かって優しく言った。
「今晩はいいよ、寝なくても」
戦車のプラモにぞっこんだった8歳の私、いつもならもうとっくに寝る時間だから強制的にも寝かせられるのだが、今夜は違う。
紅白歌合戦がそろそろ始まる。
すきま風があたたまった空気を容赦なく持ち去る、昔ながらの四方引き戸だらけの居間の中央部分に設置してある囲炉裏炬燵。豆炭を燃料とする、今思えばかなり危険な暖房設備。足を延ばせば火傷しそうなその炬燵のなかにすっぽりと体を収めて、今か今かとテレビ画面を見つめる。
気楽なものだ、学校は休みだし炬燵上には幸子おばちゃん手作りの揚げドーナツと祖母の手の込んだごちそうがずらりと並び、その横には私の大好きなサイダーがビンごと置いてある。その透明なサイダーをちびりちびりと口に運んでは、炬燵のなかに潜り込む。
あともう少しだ、もう少し待てば祖母たちの待ちわびているらしい紅白歌合戦というものが始まる・・・・・始ま・・・始・・。
小学校低学年時代、その紅白歌合戦というものをまともに見たためしはなかった。
起きていていいと言われても暖かい炬燵のなか、迂闊にもウトウトと眠気がさして来る。起きていていいと言われれば言われるほどに、睡魔は楽しんでいるかのように私にちょっかいを出してくる。それを必死に振り払い、また振り払い、そうこうしているうちに私は睡魔に飲み込まれてはぐっすりと眠りこんでしまうのが常だった。
悩み事など微塵もない時代のとても幸福な一場面。
中学の頃は1970年代、歌謡番組全盛の頃で当然のように紅白歌合戦を楽しむことができた時代だ。心ひそかに「百恵ちゃん」ファンだった私はその端麗な姿を含めてしっかりと起きて楽しむことができていた。祖母は昔と変わらず、それがその年の節目の大きな行事であり待ち焦がれた娯楽として存分に楽しんでいたのは間違いなかった。
高校に入ってからはさらっさら、興味の幅が広がったのもあるしまた友人といる時間の心地よさから、私はそれを見ることはなくなっていた。偏見的自我の目覚め。いちど見なくなると、もう見たい衝動に駆られることは皆無、それ以降はもう見ることはなかった。
あれから幾多の年月が過ぎ去った事だろう。
「紅白歌合戦」で年を越してきた淡い時代が懐かしい。
どれどれかなりのご無沙汰だったが、せっかくなので今年の年越しは見てみようか・・・な。
その、大みそかの夜がとうとうやってきて、その時間、華やかなる舞台が始まる。
ビールを片手に、最初はこんなものかと冷ややかに観ていたものの、徐々にその画面に引き込まれていく。連日テレビから流れてくる新しい楽曲達やアーティスト達に加え私の幼いころからの記憶に残るアーティスト達の競演、そしてこれを楽しみにテレビの前で見守っているだろう人々を想う。
昔々、祖母の傍らでウトウトと眠り込んでしまっていたような何気ない日常、それぞれの家庭の暮らし模様がぼんやりと浮かんでくる。みんながテレビに目をやり微笑んでいる姿。
祖母は私が眠り込んでしまった姿を見てきっと微笑んでいたに違いない、そうと思うと、なんだか泣けてくる。私ももうそんな祖母側の年になっているのだ。
「来年も観てみようかな、なんだかいい」
これからは祖母が楽しんでいたように、私ものんびりと行く年を楽しむことができるようになるかもしれない、そう感じたこの頃となった。

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