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第122話  続・そう言えば・・・海へ向かう

  「去年の夏、俺達でいかだ作って川下りしたじゃない、あれ以来なんかあの水に浮かぶ感覚にはまっちゃってさ、あれこれ調べていくうちにカヌーにたどり着いたわけよ」
黒のフルフェイスを左腕に抱えたままで正君は言った。
「へ―カヌーか、以前どっかのテレビ番組の特番で見た事あるけど、海なんかも行けるやつでしょ?」
ぼんやりとだがその輪郭を思い浮かべながら私は言った。
「そうそう、まぁカヌーって言うかカヤックだよね、シーカヤック。川に湖、そんでその海なんかもすいすい行けるやつ、これがまた気持ちいいんだよ。あのいかだ大会があってちょっとしてから中古なんけど手に入れてひとりで練習してたんだよ。」
秘密を打ち明ける小学生のようにはにかみながら正君は言った。
「へーそうなんだ、それは知らなかったな、でもそうだよね、あれからしばらく会ってなかったもんな、そんな趣味に走っていたとは・・・、それにあのドカティ、あれも前から欲しがっていたようだったけどついに手に入れたんだ」
「エへへっそう、長いローンだけどね」
笑顔がいちだんとほころんだ。
「それでね、この前もう一艘中古のカヤックを手に入れたんだよ。だから今度一緒に乗ろうよ、初めから海は厳しいと思うから、どうだろう小川原湖あたりで、あそこなら大波なんてないし初乗りにはもってこいだよ、どう?」
初めてテレビで目にしたそれは大海原に漕ぎだし、リアス式の入り組んだ岩場の海岸ラインをなぞるようにスイスイと気持ちよさそうに進んでいた。まるで海面すれすれを泳ぐ大きな魚の背のように。そのカヤック側から捕えた沿岸の景色は私の目を釘づけにした。いつもの景色が100倍美しく私の内に飛び込んだ。
「いいねそれ、やってみたい、正君はいつが休みなの、その日に合わすよ、行こうよ」

その日はあの遠いいかだの日のように空高く晴れ渡った。
私達は2槽のカヤックを穏やかな小川原湖の湖面へと浮かべ、そしてまずは私の基礎的な練習から始めた。なにせ初めてのカヤック、コックピットへの乗り込みからそのコックピットの隙間を覆い隠すスカートの付け方、それが済むと今度はパドルの持ち方そして漕ぎ方、それらひととおりのレクチャーと手ほどきを受けて少しばかり岸から離れた位置に移動した。それからまたひとつ、カヤックを自在に操るうえでどうしても身につけなければならない重要な練習が待っていた。それはセルフレスキュー、カヤックが不意の横波を受けたりして思わず安定的バランスを崩してしまった時の対処の仕方だ。
大きな傾きにはパドルで湖面を押し付けて元の姿勢に戻すのだが、仮に体が湖に水没した時にはそれではすまない。その不慮の態勢からカヤック本体を軸に水中を回り込むように、沈み込んだ反対側から体を浮き上がらせて元の位置に戻すのだ。この時のパドルの使い方が重要になる。起き上がる時に、起き上がれるように水中でパドルを使って体を押し上げる動作が生死を分ける。このタイミングがなかなか難しい。何度となく溺れかけながらも、これをマスターしなければ沖へは行けないと言い張る正君の厳しさと手厚い補助を受けて、とうとう出来るようになったものだ。
考えるに「慌てない」、それが最も重要な事だったような気がする。
これが出来た時点で、初心者ながらそれなりの自信になったのは確かだったし、なんだかこのカヤックとの一体感さえ感じるようになっていた。不思議なものだ。
そして私達は沖へと漕ぎだした。
素晴らしい感覚。
そこには大空を飛び交う鳥たちにも似た解放感が漂っていた。
自由な道。
あのテレビ画面で目にした奥行きのある光に満ちた光景が今私のこの目の前に広がっている。湖面の微細な揺れは降り注ぐ陽光をあたりに反射拡散させてはキラキラときらめき、私の深層に潜む欲望をくすぐる。パドルを持つ手にますますの力がみなぎる。
正君は私の左側を、まるで巨大な鮫の背びれでも眺めているようになめらかに、そして力強く前へ前へと進んでいく。到底追いつけないほどの早さを感じる。
私としても、ひと漕ぎひと漕ぎ思った以上に前へと進んでいる。
前方にさえぎるものなど何もない、限りなくそして穏やかだ。
私達は何処までも自由だった。

芝生に腰かけながらも宙を漂う私の思考は、すでに先ほど岩陰に隠れてしまった漁船の位置にいた。あの遥かな場所に行ってみたい。
そうか、あの、カヤックか、遠いあの日のカヤックに乗ってこの紺碧の海に漕ぎだしてみたい。そう思った。

あれからひと月、すでに手もとにカヤックがやって来た。あの時正君と乗ったものよりはひとまわり大きな奴だ。果たして例の「セルフレスキュー」、この大きさでもすんなりとひと回り行けるのだろうか?
いやいや考えるな、まずは練習、それからだ、もしかすれば体がその時の動きの記憶を呼び戻してくれるかもしれないのだから。まずは、そこからだ。
全ての準備が整ったら漕ぎだそう、そのキラキラな海へと。

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