Column

第116話  生まれて初めて

  「おじいちゃん、いくつになりはったん?」
少しばかり前になるが、あるテレビ番組で明石家さんまさんがテレビの中継画面に映し出されたおじいちゃんに向かってそう聞いた。
「生まれて初めて、90才になりました」
おじいちゃんはテレビ中継ごときに微塵の動揺もみせず、ゆっくりとそして甲高い声ではっきりと答えた。
言われてみれば確かにそうなのだ、長い年月を生き抜いてきたそのおじいちゃんにとっても90才の年齢に達したのは生まれもってこの方初めての経験なのだ。あまりにもあたりまえのことなのだが、このなにげないひと言がストレートに滑稽で、作り物にはあり得ないありのままが朗らかに心に響く。
「ひゃひゃひゃひゃっ、これだから素人にはかないまへんわ、ひゃひゃひゃひゃーっ」
笑いの怪獣がトレードマークの並びの良い歯をむき出して大笑いしていた。

いつからだろう、生きることに慣れてしまったあたり、からそこまで深く考えたこともなかった「生まれて初めて」。
あらゆる情報網を通じて自然に入り込んでくる「仮想的初めて」を体が垣間見て聴いて記憶しているからこその新鮮味のない日常にある展開。
しかし近頃、ある程度の年齢を超えたあたりから「初めて」を実感するようになる。
仕事柄の洋服の値札に記載してある値段が見えにくくなり、そのうち本の文字が霞みだし、とうとう生まれて初めて眼鏡を買った、首の付け根に激しい痛みが走り病院へ、経年で圧縮された首の骨を伸ばすための首を吊りあげる装置で初めて首を引っ張り上げられる、また大腸にポリープがみつかりそれの切除による初めての入院経験など、年を重ねることによってあちらこちらに支障があらわれての初めて。
また悪いことばかりではない、初めて参加できた中学時代のクラス会などは今だからの再会に胸がいっぱいに、ビンテージ物やジャンク物の買い付けの仕事で行く海外出張などは新たな所々に毎日が新鮮で童心に帰るほどにわくわくと宝探しに熱中している、時折記憶を手繰っては目指して行くようになった初めての食事はどんなもの出てくるのか胸が高鳴る等々、数え上げたらきりがない。
これほど日常生活の中にちりばめられている「生まれて初めて」を惜しげもなくすっかりと見過ごしてしまっていた中だるみの経年が今になって振り返るとなんとももったいない。思えば、幼いころは「初めて」をダイレクトに感動していたものだった。

数々の経験が礎となって奥深い人間が作られてくるのかもしれない、と妙に納得。当然のように戦争など大きな憎しみや悲しみ、そして何らかの大きな喜びを数多く経験してきた先のおじいちゃんのその泰然自若とした振る舞いに深い大きな存在感を感じたものだ。
まだまだ命ある限り、これからも「数多くの生まれて初めて」がぞくぞく待っているはずだ。それらにまともに向きあい、それらを素直に受け入れ、それらをじっくりと経験し咀嚼して行かなくては人生後半もったいない。
そして先に待つ「死」。
こればかりは皆目未知であり想像すらままならないが、「人生最後の生まれて初めて」の経験であることは揺るがない。

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