Column

第110話  線路はつづくよ

  2008年の9月もなかば、弾ける波も流れる空も新鮮なるこころも穏やかなるあおい朝。
「あっすいません、今急いでいるのですがここから近い駅はどこですか?」
突然呼び止められての唐突なる難問、私はしばし考え込んだ。

空高くそろそろ秋の気配漂うこのあたり、私はいつものようにショートスリーブTにショートパンツといった乾きやすい化繊のジョギングウエアーに身をつつみ、種差海岸を抜けて白浜方面に向けて遊歩道を駆けていた。それはまだまだ序盤、寝ぼけた体をいたわるようにゆっくりとした足取りで整備された歩道を一歩一歩進む。最初に目の前にあらわれた20段程の階段を躊躇なく駆け上がり、しばらく平坦な道を進むと次に下りの階段が姿を現した。そこも転ばないように気をつけながらも駆け下りる。
するとその先に小さな入り江が姿を現す。
小型の漁船が5,6隻くらいはあるだろうか、そのすべてがロープで丘に引き上げられている。その周辺ぐるり見渡すとしっかりと護岸された漁港となっている。この時間、ちょうど私がこのあたりを駆ける頃にはひと稼ぎしてこの場所に戻って来ているのだろう、時折数人の漁師がその船に乗り込み漁具の補修整備にいそしんでいる。
徐々に体も温まり私の駆けるスピードも速さを増してくる。
その小さな漁港をすり抜けて舗装路に出ると、前方に大きなトランクをごろごろと引きずりながらもう片側にショルダーバックを抱えてきょろきょろとあたりを気にしてせわしなく歩く、「青年」がいた。その足早な青年のわきをまさに抜き去ろうとした時、そう言って私は呼び止められたのである。

恥ずかしながら、この地をちょいちょい駆けていながら、この地を行き交う電車に乗った事が無かった私。たった今立っているこの場所から一番近い駅がどこにあるのか?すんなりと頭の中に浮かんでくるはずはなかった。
ただ、知っている駅はある、それは種差駅。
確か、種差駅はあの円形の噴水のある公園のわきの坂道を上って行けばあるはずだが、ここから歩くには結構な距離だ。観光的にはぜったいにあってもいいだろう白浜海岸付近の駅、ただ、ぼんやりとした空想めいたものだ。今立っているここはどちらかと言えば白浜海岸に近いが、果たしてそれはあるのだろうか?目の前の青年に、そのあるかどうかもはっきりとしない駅を伝える術は私にはない。
「急いでいるって・・その電車の時間なんかも調べてあるわけ」
私は息を切らしながら聞いてみた。
「はい、あと10分くらいでこのあたりを通過するはずなんですが」
「あと10分か・・・」
誰かに聞きに行く時間なんてない。
「自分が知ってる駅は種差の駅なんだけど、ここからだと懸命に走って10分といったところかな、このあたりの駅は申し訳ないけど詳しく解からないんだよ、種差駅に向かってみる?」
「そうですね、それじゃそうしてみます」
私が種差駅に一番早く行けるだろうルートを手際よく彼に教えると、青年は「ありがとうございます」と丁寧に一礼、したたる額の汗を軽くぬぐいながらやはり足早にその方向を目指した。
よかった、もしかすればだが、間に合うかもしれない。
重責を果たしホッとした私は再び走りだす。
ちょっとした高低差のある林道をするりと抜けると眼下にその白浜海岸が広がる。いつ見てもきれいな海岸だ。あおい芝が一面に広がり次に白い砂浜がゆるいカーブを描いて小指の爪程に遠くある牙城めいた展望台めがけて優雅に横たわる。
疲れも吹っ飛ぶ光景だ。
軽快に私の両足は地面を蹴り上げる、と、いつもなら全く気にしなかった看板が目に飛び込んできた。
「陸奥白浜駅」
陸奥白浜駅って、もしかして白浜海岸の駅のことか?
はーーーーっ、ここにあったのか・・・。
さっきの所からだとずいぶんと近い。私の走りでものの5分かからなかったか・・・絶対的にこっちの駅を紹介するべきだった事は・・・明白だ。
絶望に近い深いため息が漏れた。
私はなんてことをしてしまったのだ、旅の途中だと思われる青年にとんでもない残酷を与えてしまった。どう見たってあの大荷物だ、種差の駅だと間合うのは厳しいかもしれない。仮に、あくまで仮にだが、その種差の駅を通過する電車に息も絶え絶え間に合ったとしよう。その電車に飛び乗りホッとひと息、この距離だもの、ものの5分もせずにこの陸奥白浜駅に到着するだろう、すると青年は・・・なんて思う事だろう。
意気消沈とはこのことだ、知らなかったとはいえ、私の大きな罪に違いない。
心が痛い。
それからと言うもの、その場所を通るたびに心がチクリと疼く。
「あの青年は今を立派に過ごしているのだろうか?」

あれから私は電車に乗った。

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