Column

第109話  夏が来れば想い出す

  あたりの景色をタラリと溶かしかねない夏の日照りがじりじりと降り注ぐ。
麦わら帽子をちょいと頭にのせた小3の私は額に大粒の汗をいくつも浮かせながら数本の松の大木や身をくねったまま成長した桜や、それらを囲むようにライン状に立並ぶ杉の木一本一本を丹念に見上げ、その声の主を探す。
ジージージージー!
声はすれども姿は見えず。
すぐそのあたりで鳴いてそうで、その姿が目に入ってもよさそうなものなのだが不思議なことにさっぱりと見えない。
しょっぱい玉汗が満を持してつるりと頬に筋をえがいて滴り落ちる。
目に入ったりもするが、へっちゃらだ。
私の手には、先端に茶色でべたべたとしたアメ状の物体をこすりつけた長さ4メートルはある竹竿が握られている。
それをやつに、そう夏限定褐色の王様アブラゼミの背にくっつけて捕るのだ。

その小さな林の小川を挟んだ奥には4階建ての白く大きな総合病院があった。
その病院の建物の林側の壁には多くのアブラゼミがへばりつくのを、私はしっている。こちらの林で見つからない場合はそっちなのだ。
なぜかやつらはその白い壁に取りついてジ―ジ―と鳴いている事が多かった。
やつらを発見した時は躊躇なくその病院の玄関を駆け抜け階段を駆け上り、そして屋上に飛び出るのである。今時と違ってその屋上のフェンスなんて低いものだったし、それを軽く飛び越えて屋上の縁にそーっと伏せてはそこにいるはずのやつらを,半身空中に突き出した格好で確認するのだ。
今考えれば転落の危険もありえる恐ろしい場所なのだが、なんてことはなかった。子供の頃なんて夢中になればみんなそんなものだったに違いない。
アブラゼミは上等のテンプラが揚がるように乾いたよく響き渡る声を震わせて一斉に鳴いている。
それの中の私から一番近い一匹をめがけては、そーっと竿を突きたてる。
ずるずると屋上の床に体をすらせながら上半身をもっともっと空中に突き出し、竿の先をジワリジワリと、声を張り上げているアブラゼミに近づける。
ある程度接近してもあせってはいけない。急ぎ過ぎると警戒心の強いやつらは瞬時に翻り、そして飛んで行ってしまう。すべての行為が水の泡だ。
10センチ、5センチ、にじりよる。
「いまだ!」
ぺたりと竿の先がアブラゼミの背を捕える。
ジッジッジッジッジッと仲間に危険を知らせるように野太く鳴きながら羽をばたつかせるが後の祭りだ。
私は持参した虫籠に捕獲したアブラゼミを押し込む。
これでここの壁面はしばらく取れない。なぜならその他のへばりついていたやつらはい今のひと騒動で一匹残らず逃げてしまうからだ。
そんな胸躍る体験を夏中繰り返していた私だったが、ここの病院内でひとつだけ気をつけている事があった。
と言うのは、同級生のH.Tが一学期の中頃にここで体験した出来事に由来する。学校を休んでいた奴がしばらく振りに登校してきた時に私に話してくれた事だ。

その日、奴は両親について、両親の友人のお見舞いのためにこの病院へとやってきていた。両親とその友人の話が弾んで思っていた以上に時間がかかり、暇をもてあましてしまった奴はひとり廊下に出た。あちらこちらを探検していると目の前にちょうどよじ登れそうな柱が姿を現した。奴はそれにちょっかいを出したのだ。
両手でその柱を抱きかかえるように挟み込み、次に両足を絡めてしがみつく。身軽だった奴にとってはきわめて簡単なお遊びだ。
すると、年の頃は80才くらい、ひとりのおばあさんがそこへ歩いて来たという。トコトコとゆっくりとした足取りだ。
グイグイとよじ登り、まさにH.Tが天井に頭部が着こうかといったあたり。
「こらこら、そんなどごさ登ってれば脱腸になるぞ、下りろ!」
そのおばあさんは激しく叱ったそうである。
「うるせーそんなのなるがークソババア」
H.Tはすかさず反撃、やんちゃに言葉を返したのである。
「近頃のガキは言う事もきがね、困ったもんだ」
おばあさんは吐き捨てるようにそう言うと、あきれた様子で再びトコトコとその場を後にしたという。
翌朝である。
やつの大事なところは高熱をおび、激しい痛みに襲われたのである。そのままこの病院に担ぎ込まれ、なんとしたことか「脱腸」と診断されたのである。恐ろしや恐ろしや、いったいそのおばあさんはなにものだったのだろうか?誰にもわかりゃない。
そんな不気味な話だったからその日以来私の頭からさっぱりと離れることはなかった。それからというものこの病院の階段を上ったり下りたりして廊下に出るたびにびくびくとあたりを伺うようになった。もちろん今日だってそうだ、そんな柱なんて仮に目の前にあったってぜったいに登りゃあしない。それらしいおばあさんが私に向かってなにか話たんなら「はい!」って素直に言う事を聞くだけさ。クソババアなんて口が裂けたって言えやしないのだ。

セミのサナギ的幼虫をベゴッコと呼んだ。
幼稚園の頃の私はこのベゴッコ捕りに夢中だった。近所のお寺の無数に散らばる墓石の周辺を走る狭い土の歩道を歩きまわり、小さな空気穴を見つけては指で掘り返す。多い時は数十匹とその幼虫を捕まえたものだ。この姿がまた小さなエビのようでなんともいえずかわいい。それを大きめの虫籠に入れておいて数日、それらは次々とセミの成虫となっていく。完全に羽が乾いたやつから順に虫籠から取り出し、朝露の輝く朝に放つ。ジッジッジッと真っ青な空間へと縦横無尽に飛んで行く。太陽はジリジリと力強い。
そのあたりから・・・セミがすきだ。

今でもついつい、どこからか蝉の声が聞こえてくるとその方向に目が向いてしまう。

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