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第107話  便所へ行かなくちゃ

  闇に包まれた隠微な世界、チックタックと柱時計の音だけが静寂を切りつける。寝床からもそもそと這いずり出た私は、手探りで天上から垂れ下がっているはずの細長いヒモを探し当て、それをカチャリと音がするまで下にひっぱる。丸型の蛍光灯があたりを物悲しく照らし出す。
ここは居間、第一段階だ。なんてことはない。
問題はこれからだ。
居間の冷たい光が襖越しに漏れ差すうす暗い台所に出て、調理場のある土間からサンダルを探し当てて履く。夏だというのにざわざわと肌寒い。
その土間の左手には裏庭に出るための木枠のガラス戸があり、それをガラガラッと開けると夜気に冷やされた重い空気が微風となって家の中に入り込む。
私は大きく身震いしちびりそうになるがぐっとこらえる、そして目が冴える。
前方の景色が月明かりに照らされぼんやりと浮かび上がる。
私はありったけの勇気を振り絞って一歩外界に歩み出す。
右手方向には、隣の家のコンクリートブロックが積み上げられた高さ2メートル程のヘイがひっそりとたたずみ、それに沿うように祖母が日々丹精込めて育てているアヤメが意志を潜めた亡霊のように整然と立ち並んでいる。左手方向には直径3メートル程の楕円の池がさらさらと水をたたえて月明かりを波紋状に映しだしている。その池の隣には朽ちる寸前の木製の丸い蓋を取りあえず載せてあるだけの古井戸があり、その古井戸を覆い隠すようにナナカマドが奔放に生い茂っている。そのナナカマドの後方は真っ暗で何も見えない。
ガサガサッとそのナナカマドが小さく揺れる。いつものことだ。それと同時にアヤメ達がこちらを向いた、ような感覚。それもいつものことだ。
私はそんなの見てないしなんにも気が付いていない、風を装う。
闇はこの世界のあらゆる妖怪を目覚めさせ、私の行く手をさえぎる、というか、私をもてあそぶ。夜は深く、どこまでも限がない。

それでも私はデコボコの小道を、大きなサンダルを引きずりながら注意深く進む。
母屋と同じくらいの大きな納屋が近づく。
その納屋の中に、今どうしても行かなければならない便所がある。
幼いころの生活の中で一番大変だったのが母屋の外にあった便所だった。どうしたって真夜中に一度は尿意を催して起きてしまうような年頃だ。到底朝まで我慢できる訳も無く、仮にオネショなんかしてしまったら祖母の大目玉が待っていることは明白だ、覚悟を決めて布団からそろり抜け出すしか術はなかった。

納屋の使い古された木枠のガラス戸をガラガラッと開けると、カビの胞子でも舞っているかのようなすえた臭いが鼻をつく。月の明かりがさらりとあたりを照らしてくれているおかげで、かろうじて便所のスイッチが見える。小ぶりの乳房のような形をした黒い半球体の物体が壁にくっついている。その半球体の先っぽに付いている乳首のようなノズルを私はカチャリと上げた。
大便と小便のあくまで狭い空間を隔てる薄っぺらい壁の上部に30センチ四方の四角い穴が開けてあり、そこの天板にひとつだけ張り付いている20ワットの裸電球がぼんやりと両空間に灯をともす。まるでロウソク程の薄暗さは、裏さみしさと共になにか別世界的錯覚をともなう陰影が目に入るだけに、漆黒よりも増して気持ちの良いものではない。
10センチ程高い便所の床板にひょいと上がり用を足そうとすると、隣の大便用の部屋からカタカタっとなにか小さな音がする。いつものことだ。
ぜったいになにかいる、と思うが、ぜったいになにもいないと自身に言い聞かせる。
すると天上からカラカラッと乾いた音が回る。これもいつものことだ。
過剰な警戒のあまり、研ぎ澄まされた五感はどんなささいな物音をも逃さない。
いつもなら、昼間なら、聞こえていてもなんら気にもならないようなことも敏感にキャッチしてしまう。早くオシッコを済ませてさっさと安全地帯に戻りたい、そう思えば思うほどにこれまたオシッコの方は切れが悪くなる。そのぐずぐずの間もあちこちから聞こえてくるパリパリやコロコロや、まるで誰かがオモチャで遊んでいるかのような軽快な音が私の全身をつつきまわす。
得体のしれない小さな恐怖。
「こわ・・・」
身が縮む、そんな時、後方になにかを感じる。
「ケラケラッ」・・・誰かが笑った・・・ような・・・・?
私は身を固め一心不乱にオシッコの終わるのを待つ。
タチッタチッと最後のしずくが便器に吸い込まれ、ひとまず事は澄んだ。
さぁ、これからだ。
私は、さっき声がしたような?私のまっすぐうしろに目をやることは無く、足元から出口の方向へと視線を運びながらそろりと移動する。月明かりのおかげで出口の位置が解かる、それを確認してから電灯のスイッチを切る。急ぐことも無く、そう急いではいけない、ゆっくりと進む、それがいい・・・。
「何もない何もない、誰もいない誰もいない・・」
そう念じてひたひた歩み、背中になにかを感じながらも出口まで進む。
そろりと片足を外に運び、あとの片方も外に運ぶ、そして開けっぱなしだったガラス戸を後ろ向きのままパシャリと閉める、その時だ。
それっとばかりに、一目散に母屋へと向かって走る。
こちらもガラス戸を開けっぱなしにしておいた勝手口に飛び込み母屋の中へと必死のゴールイン。全身の緊張感から解放される瞬間、ここでホッとひと息、これでやっと生きた心地にひたれるのである。
冬はまたひと味違った。
厳しい寒さ対策としてナイロン製のスキーウエアーを着込み、ゴム長を履いて雪の降り積もる細道をとぼとぼと往復したものだ。季節は変わっても相変わらず見えないなにかが飛びまわり、あちらこちらで幼い私の気を引くように、パリパリガサガサと不思議な音が響いていた。慣れることは無かった・・・。

時折、そこここで外にある便所を目にする。
当時は、そんなだから心よい思いはなかった私だが、なぜだかほろ苦い懐かしさに気持ちがほころぶ。ひょっとすると・・・・あそこには本当に小さな妖怪がいたのかもしれない・・・・なんて今にして思ったりする。やつらは脅かすつもりなんかさらさらなくて、そこにほぼ毎晩やってくる私とただ遊びたいだけだったのかもしれない、と。なぜなら記憶に残るその音達はとても穏やかでやさしい音だったから。「暗さ=怖い」といった思い込みがなければ、もしかすれば子供時代だったからこそ楽しめた場所だったのかもしれない。
置きかえると、いかに今を楽しむことが出来ているか、と言う事になるだろうか?後悔しないように刷り込まれた固定観念を払拭し偏見なく今を過ごしていきたいものだ。

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