Column

第106話  時に乱れる現在と過去の立ち位置

  記憶の奥底に深く焼きつけられた印象が不安定ながら常にそこにある。

風の無い生温かい早朝にうっすらと靄がかかっている音のない風景とその微妙に揺れる湿り気を帯びた白い空気を皮膚が感じるシチュエーションに時として遭遇すると、幼稚園の年長組の夏の頃、ちいさなシャベルとプラスティックのバケツをもってカブトムシの幼虫を採りにいく途中の道すがら、に、突如として私は入り込む。その懐疑的懐古な感覚に私の心はざわめく。今日はサナギもたくさん採れるかな、やっぱり成虫も欲しいな、なんだかそんな軽い期待感が湧いてくる、のだが、それはあきらかに過去の憑依でありながら、気分的には年長組時代そのものである。懐かしくもあり、また怖くもある。

太陽が出ているのに突然雨が降り出し、そしてにわかに上がる。あたりは温められた雨水の蒸気でむっとした湿気におおわれそれによってどこからか漂ってくる濡れそぼった枯れ草の臭いに体全体がつつまれると、なんにせよ遊びに夢中だった小学生の頃のきびしい残暑が続く9月の何気ない自宅の裏庭に、私はポツンとひとり立っている。今は建て替えられてその鬱蒼とした淋しい面影はないが、当時のそのままのそこにたたずみ、物悲しい静けさに私は襲われてしまう。

あれよあれよと気温が上がり、すでに乾ききった環境からそれでも振り絞るように熱気にやられた大気がどんどん上昇して、キンキンに輝く太陽の周りにいく重もの光臨が姿を現わした空を仰ぐと、中学1年の頃の夏休みのプールで力の限り遊び切り、学校前にある小さな駄菓子屋でマルちゃん塩ラーメンを作ってもらっての間食の後、将来の展望などお構いなしの力の抜けたけだるい帰り道の、照り返しもきついアスファルト路面の上を、私は額に汗をたらしながら元気に歩いている。そこにあるのは幸福感だけだ。

力無い西日が曇りガラスをぼんやりと通りぬけて、あたりの壁や床や物をくすんだ山吹色に染めると、どこにでもいるしがない高校生だった頃、アルバイトをしていた石材店の居間で帰り仕度を終えてまさに今帰れる状況にありながらも、まったりと座り込んでは何かを眺め私はぼんやりとしている。
卒業が近いが先の見えない陰鬱とした環境の中でもがいている。その当時のあやふやで不安でもろい心が私のなかに生まれ、少なからず精神が不安定になる。

そんな調子で過去の感情が不意に胸の奥に入り込むことがままある。時代の端々から受ける思いが膨らみ、記憶の扉が開け放たれてしまう時、心は安定感を失う。
かつて経験してきた印象深い心のおりが、この先もひょんなことから顔を出してその時々の感情を思い起こさせてくれるだろう。楽観的な出来事が大半であってくれれば良いのだが。私が高齢と呼ばれる存在になった時、たった今経験している時代の息吹そのものも過去の一部として蘇ってくるに違いない。まぁそのあたりまで生きていれば・・・の話だが・・・うーん、それでもせっかくだから、どんな現象で何事が浮かびあがってくるのか?ちょっとそれも体感してみたいものだ。

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