Column

第100話  時の流れのはしっこにて

  第100話と区切のいいところで、ときには店の事でも。
1987年に輸入雑貨店として創業、2012年の今年で店はちょうど25年になる。四半世紀、重ねた日々を数えればそれなりの時間が流れているのだがいざ振り返ってみるとそんな感じでも無くて、また逆に早かったかと言われれば膨大な思い出が連なりやはりそんな感じでも無くて、なんだか推測不可解な現在の立ち位置である。
現在は青葉に居を構えているが過去2度の移転があった。
最初の馬場町時代は店舗の内外装から什器まで私自身の手作りだったため、みるからに粗末なものであった事は否めない。また建物自体も一目瞭然時代物で、どことなく全体が左側に傾いて建ってはいたがなんら不便はなかった。
荒塗りのオイルステンが鼻を突く什器達、うまく言えばぬくもりのある什器に並べられたそれらの雑貨達は、思うようには売れなかった。
あれこれと試行錯誤の末、少しばかりの洋服を置くようになった。
それからしばらくして店内は洋服がメインとなっていた。
それに伴いやはりフィッティングルームが必要となった。いかんせんこの店の床面積は6坪だけのものだったので、泣く泣く畳半畳分程をそれに回した。パンツの試着時はほとんどの人が壁に腰を打つほどに窮屈なものだった。
ちょうどそのあたり、当時大学生だったKがアルバイトとして店に入った。しばらくして店にも慣れ天性のロマンティックな接客も板に付いた頃、そのKがぽつりと言った。
「ここってなんかいますよね、だって誰もいないのに玄関の敷物がカチャカチャ言うし、そのせまい通路でパタパタ歩きまわる音がするもの・・・」
それは私もうすうす気づいてはいたが、それほど深く考える事はなかった。なぜならそれに対する警戒心といったものは微塵もなかったからだ。根拠はないが、なんだかそれは古くからこの建物に住みついていた精霊、言わば、座敷わらし的存在の仕業のような気がしていたからだ。恐怖心もなければ戦慄もない、なんだかほんわりとした形のないほほ笑みがそこにありそのあたりにはゆらぐ気の微動があった、という感じだ。
レジスターを設置してあるカウンターの裏には2階の部屋に上がるための古くて狭くて急こう配な黒光りするほどに年季の入った木製の階段があった。普段店にはいないのだが、カミさんと8歳になる娘になんらかの用事があったのだろう、5歳になったばかりの幼い息子をたまたまあずかっていた。誰もいない店内で何をするでもなく一緒に過ごしていた時、たまたま中年のカップルがひと組入店してきた。
接客のため、私は息子に2階に上がっているようにと言った。
昭和初期型のガタつく合板の引き戸を私が開けてやると、そのうす暗い空間にそびえ立つ使い古された階段の床板に両手両足を張り付けるようにして息子は2階へと一段一段上がっていった。階段の中腹まで上がったところを見極めたところで私はその引き戸を閉めた。
数秒後、ドカドカドカドカっと大きな衝撃音をあたりにまき散らし、最後にドーンとカウンター脇の壁にぶつかる鈍い音が響いた。
これは違いなく息子である。
私はあわててその引き戸を開きその小さな踊り場に転がり落ちてちょこんと座りこんでいる息子を目にした。とっさに抱き上げたのだが泣くことはなかった。そしてよくよくみたが怪我もなく無事にすんだ。それはまさしくその座敷わらし的存在が助けてくれたのだと、私はすんなり思っていたものだ。
毎日午前11時30分に店を開き、午後2時頃に朝握ってもらった2個のおにぎりを腹に入れた、そして夜の8時にはきっかり店を閉めた。
昼は弁当になったが、それ以外今でもなんら変化はない。
ここで10年、店は鳥屋部町へと移転した。
以前より店内は広くなり、フィッティングルームで腰を打つ人はいなくなった。その頃、自衛隊上がりのA2Cがスタッフとして入っていた。背丈は187㎝もあり肩まである長い髪、眉毛の細いいかつい風貌ではあったが、注意をするとよく泣いた。
「なんか誰もいないときに玄関でカチャカチャ言いますよね。たまに、いらっしゃ-いっなーんて言ってしまいますよ、変ですよね」
しばらくして店の仕事や戸口の低さ、また煙たい私の存在にも慣れてめそめそ泣くこともなくなったA2Cはぽつりとそう言った。
「うん、そうだな」
あのふんわりとした存在がたまにこちらに遊びにきていたのかもしれないが、私は笑顔でそう答えただけだった。
鳥屋部町の店舗には幸運な事に車3台分の駐車場があった。これは画期的な進歩であり駐車違反を始終気にしたり、ましてや違反切符を切られるなどといったことはなくなった。
ただ、ここにはひとつだけ難点があった。
それは車道から駐車場に入るところに大きな段差があってうまく斜めに進入しなければ車の底をコンクリート面に打ってしまうという不具合だ。
ちょくちょく車底部をこする音があたりに響き、そのたびに私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。オイルパンを破損してすべてのオイルをまき散らした悲惨な事件も一度だけ発生した。さすがにこの時、将来的にはやはりどこか別な場所を探さなくてはいけなくなるだろうとぽっかり浮かんだ。
そこで辛抱13年、出入りの容易な駐車場のある店舗がみつかった。いくばくかの躊躇はあったが、私は思い切って店を郊外の青葉地区へと移すことにした。場所を決め、すでに私には手におえない外装工事を旧知の工務店へと発注した。建物全体に足場を架けて4日目(3.11)、あの震災に見舞われた。
社会の動きのすべてが止まってしまった。
そのなか、この先どうなるのか皆目見当もつかなかったがとにかく店を完成させなくては、暗闇のなかでそう思った。本来の仕事とはかけ離れてはいるが、目の前にある今やらなければならない事のみに集中した。協力してくれるスタッフや友達の力、それはそれは大きなものだった。
あれから約一年半が経った。
幸いなことにこうして営業を続けられている事に感謝してやまない。

最初に店をはじめたあの歴史的長屋風建築物は今では広いエントランスを備える洒落たビルへと姿を変え、元来店があった一画はコンクリートを敷き詰めた平坦な駐車場となってしまっている。少しさみしいがそれはいた仕方ない、時代は千変万化と流れているのだから。
あの頃、まだまだ華やかだった三日町界隈で(土曜の夜などは歩道いっぱいに人々が行き交い多数の違反駐車が道路脇を占拠し、時折中央ラインを流れる車の渋滞もおこるなど深夜までにぎわっていたものだ)お洒落しては夜な夜な遊び回っていた連中も今では働き者の父親となりそしてやさしい母親となっている。そして成長したその元気な子供たちと一緒に来店してくれるのは本当にうれしいものだ。
また近頃では、ミドル世代での洒落た方々が目立つようになった。
これもまた明るい文化的変化のひとつである。
時代は普遍的に一定の法則で大河のように流れ、その渦巻く本流のはしっこのゆるいあたりを私はプカプカと漂っている。新聞にはメガネが必要となり酒量も半減、ましてや大腸ポリープなんてものが見つかってしまうような齢人にして、今更ながら激流に飛び込むような革新的変動はないだろう。日々、黙々とおぼれないように平泳ぎでゆっくりと進むのみだ。昔からそうだったように・・・。
やや平穏を取り戻しつつある美しい海岸線と美味い料理と心地よい人情を有するこの町で、精一杯皆と一緒に今を頑張ってみよう。
「パタッパタッ」
今でも時折、そんな微かな響きが耳をくすぐる・・ような、遠く懐かしい記憶との融合。

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