Column

第98話  ショートトリップ

  朝、テレビを見ながら食事をとっていると、右下の奥歯になにやら違和感が走った。
今までにはない、いやな感覚。
痛いとか、なにかが挟まっているとか、そんななせまく限られたものではなく、ものを噛んだ後に再びアゴを開くその時に、プワッと歯が浮きあがるような曖昧感。
半ば口をあけたまま、しばし考える・・・。
もしかすれば、奥歯を治療したさいにその歯にかぶせたあの素敵な銀色のカバーが剥離してしまったのかな?と推察、取りあえず残りの食事をささっと済ませて歯を磨き、それらしいと当たりをつけた奥歯一本を右手の親指と人差し指ではさみこみ、私はグイッと引き上げてみた。
カコッと、ほんのすこしだけそのカバーは浮きあがった、が、それ以上は上がらない。次に押し込んでみると、カコッとはまり込んだ。
どうやら土台の歯とこの銀色に輝く金属の物体は完全にはがれてしまっているらしい。
今はどうにかこうにかどこかで引っかかってつながっているが、いつ何時ポロリと落ちるともしれない。この、なんとも中途半端な状況は私を憂鬱にさせ、また意識がそこにだけ集中してしまうと今日これからの仕事にも支障をきたさないとも限らない。
それは・・・いけない。
ただ今午前10時・・・
仕事が始まるまでにはまだ充分に時間はある。
あそこなら、もしかすれば飛び込みでも診てもらえるかもしれない、そう思った私は早速に掛かり付けの歯科医院へと向かった。マスクをして半分顔の隠れたその先生は、どこか元気だったキャスター時代の筑紫哲也を彷彿とさせる。やさしい物腰とその話しぶり、ましてやふんわりと盛り上がった白髪交じりのヘアースタイルなどは、もうそのもの、と言っても過言ではない。
幸いなことに、午前中予約の最後の患者が終わったあとで診てもらえることとなった。

ところどころに小さなシミの目立つ耐火パンチボードを張り合わせた天井を眺めながら、私は大きく口を開け、先生は先がへの字にまがったラジペンのような器具を私の口の中に押し込んでいた。
「これ・・どうした・・・とれないな・・・すぐにとれそうなんだけどなー・・・」
ひとり首をかしげながら先生は言った。
「これ以上強く引くと、中が割れそうだなー・・・んー割れたら大変だなーどうしようかなー・・・」
それから2,3回強めに引いてみてもほんの数ミリ程度しか動かないようで、上げた手を一旦おろして休めながら先生はまた言った。
その後も孤軍奮闘、先生はああでもないこうでもないと小声でつぶやきながら、持つ器具を時々換えては奥歯の銀のカバーと対峙し続けていた。
そんな時だった。
BGMとして隣の部屋から常に流れているラジオから、懐かしいメロディーが私の鼓膜を震わせた。
「あーなたーのゆめをーあきらーめなーいで・・・」
この女性ボーカル、誰だっけ、なんていう曲だったっけ、まったく浮かんではこなかったが確か私が店をはじめたばかりの頃によく巷で流れていた曲であったことはよく覚えている。
(なんだかいいなーこういうの今聞くと、曲もいいけど詞も純粋でいい・・・)
20代の頃の私は、ロカビリーを中心としたいわゆるロック世代であり、テレビから流れる流行歌的音楽を、お金を出して買ってまでステレオやカセットプレイヤーで聞くことはなかった。
それらの音楽は、居間のテレビからだったりレコード店の売り場でだったり、またカーラジオからだったりと極めて自然なかたちで耳に入り込み、その当時のさりげない情景的映像と共に頭の奥にある記憶室の一端に閉じ込められていた。
歯科治療用の椅子に横たわって薄眼で見つめていたあの白い天上は、音楽の魔力によってそのさりげない色つきの情景を帯びたパノラマへと様相を一変した。過ぎ去ったはずの懐かしい時空へと私は瞬く間に連れ戻されることとなった。
やや眠気を帯びてぼやけていた私の感覚はそのままに、心地よくも麻痺しながら浮遊し始めた。
私は口さえ開けておけばよかった、あとは何もすることはない。
あらゆる過去の出来事がその曲につられるようによみがえってくる。80年代から70年代へと遡り、それを過ぎると60年代のちょっとした出来事から古ぼけた世相、ましてやあらゆるジャンルの曲までもが湧き上がってくる。それは心躍る空想世界。

「なんか中で引っかかってんだなー、これ使ってみようか、あまり強く引かなければ大丈夫だろう・・・ん」
かすかに先生の声が聞こえた。先生は頑張ってくれている。

吸引機でよだれを吸い込まれながら、私はここを出たらCDショップへ寄ってみようと考えていた。流れるこの曲のことも知りたかったし、また、頭の中で浮かび上がり連なるさりげなくもいい曲達(あくまで私のなかでさりげないのであり、あきらかにそれらは世間的に大ヒットした楽曲達であることは間違いない)、それらをどうしても探し出したくなっていた。全力で駆け抜けてきたその時代の息吹をダイレクトに受けとめることが出来て、こんなにも心豊かな時間を過ごすことが出来るのならばなおさらだ。
ぜったい行こう、うん、そうしよう。

「これも、だめか・・・とれそうでとれない、やっかいだなー、んー、どれ、もういっぺんその器具くれる、それでやってみるか・・・」
先生、悪戦苦闘中。
カチャリ、カチャリと金属製の器具を差し替える音が聞こえるが、霧の中の遠い汽笛ほどに気にはならない。

その曲が終わってからも私の魂は未だ私自身が作り上げたその虚構的世界を彷徨っていた。重力を失った空洞の中を漂っているようで、それがまたいい。
そう言えばあんな曲もあったなー、これもまた聞いてみたいー、そんな思いがどんどん強くなるにつれ渦巻く思考が深見へと進む。考えれば考える程に膨れあがる果てしない彼方。途方もない茫漠。
ラジオからは近頃の曲が連なり流れ続けていた。
これらの曲も数十年後には懐かしいメロディーとしてとらえられて行くのだろうと思うとなんだか切ない、が、それが深い程にやはり身にしみてくる事だろう。

どれだけの時間が過ぎたのか・・・。

「おっ、とれた!」

先生の歓喜が室内に響いた。
その声に反応するようにぴくりと私が目を開くと、先生は右手で額の汗をぬぐっているところだった。私自身今回はちょっとした治療で済むのではないかと簡単に考えていたのだがとんでもない、それなりの時間がたっぷりとかかってしまったようだ。壁の時計を見ると昼の12時を少しばかり過ぎてしまっていた。完全にオーバーワーク・・・だ。
午前中の大仕事をやり遂げて洗い場で手を洗う先生や、てきぱきと手元の仕事をこなすスタッフの方々を目にし、予定外の飛び込みと言う無礼を悔い、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。治療用の椅子から立ちあがった私は大きな声で皆さんに感謝の意を伝えた。
「ありがとうございました」
同時に、私の小さな旅も終りをつげた。

「今度は、電話して、予約してからにして下さいね」

「はーい」

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