Column

第97話  きっとあしたはそこにある

  それは異常ともいえる灼熱の午後を仕方なくも向かえたばかりだった。
「今さっき、友人から連絡があって・・・Hのことなんだけど、なんか聞いてました?」
かなり久しぶりのK2号から、そんな胸のざわめくような不審に満ちた電話があった。
「えっ、なに、なんかあったのかH」
普段、仕事の関係で関東に住むHはひと月ほど前にここ八戸に遊びに来ていたのだが、これといってなんら変りなく時を過ごしていたし、私にはこれがなんの為の電話なのかを思いめぐらしてはみたものの全くもって見当はつかなかった。
「それがっすね、友人が言うにはHが脳梗塞で倒れたって話なんですよ」
「えっ、脳梗塞って、あの脳の血管が詰まってどうのこうのっていうやつか・・・」
「そうなんすよ、その友人はHが倒れてから数日後に連絡をもらって面会してきたって言う事だから、その情報は間違いではないとは思うんですけど、詳しいことがまだ解からなくて・・・」
「まじで・・・やつはまだそんな年じゃないだろうに・・・」
「だけど考えてみればHは何にでも醤油ドバドバでしょっぱいの大好きだったし普段はジャンクフードにコンビニ弁当ばっかりでしょ、野菜は全然食わないし缶コーヒーは毎日5,6本、ましてやヘビースモーカーのうえに万年睡眠不足でしょ、やっぱなりそうだもんなーっ」
K2号はそう言うと悔しさの滲む大きなため息をひとつついた。
「わかった、とにかくHの兄貴的人間を知ってるから詳しいことを聞いてみるよ」
私はK2号にそう伝えて電話を切った後、早々に頭に浮かんだその人物に連絡をとってみることにした。

 その情報は間違いのないものであった。
彼によると、数日前から体調不良があったもののどうやら我慢していたらしく、約束があって会った時、あまりにも病的で弱り切ったその姿を見かねた彼がすぐにでも病院に行くように進めたらしいのだが、Hはひとまず帰宅を選択、翌日になってから病院に向かったらしかった。彼もそうだったらしいが、本人もまさかそんなきわどい状況下にあったとは夢にも思っていなかったろうと言うことだった。
もちろん、即日のうちに入院手続きがとられた。

 図らずも病に倒れてしまったそのHと私が会えたのは、それから治療を含むひと月が過ぎてそれなりのリハビリに取り組んだあと、幸運にも弘前の専門病院へと転院が決まった時だった。その時の移動は新幹線を使うという事で、K2号と私は新青森駅へとむかえに行った。なんとか平静を装ってはいるのだが、私としては心中穏やかではなかった。
 まずはどんな姿でどんな表情でここに姿をあらわすのだろうといった未知なる不安と、そしてまた私自身はそのHに対してはたしてどんな言葉をかけてむかえてやればよいのかが未だ明確に浮かばず思考は混迷のなかにあったからだ。
時間だけが冷酷にも歩を進める。
すでに少しばかり前、どうやら新幹線は到着したようだ。どうすればいいのだ、いや、なるようになるだけだ。
私たちは乗降客が必ず通るだろう、数本のエスカレーターの流れをすべて見渡すことのできる階下の広場で、まるで上空を眺めまわすバードウォッチャーのようにあたりをうかがっていた。
奴はやってきた。
すぐにわかった。
奴は、そのままだった。
以前とちっとも変ってはいない立ち姿だった。あの、はにかむようなにやけ顔も健在だった。カミさんと並んでエスカレーターで降りてくるその毅然とした姿に私は安堵し、緊張が幾分ほぐれたのかほほがゆるんだ。これなら気張らずになんでも言える、そう思った。
このひと月、この状態に回復するまでにかなりの努力があったに違いない。なぜなら、その当時の状況を耳にしたとき、私は、もうHに社会生活は無理なのかもしれないと思っていたからだ。まるで別人のようだと言っていたし、会ったらおどろくかもしれないともあの友人は言っていた。だから、私はある程度の覚悟だけは準備してのぞんでいたのだが、それがどうだ、今、私の目の前に立つHは私の知るHそのものであった。
軽い会話を交わした。
体の一部のマヒと言葉に未だ障害が残ってはいるがその記憶や思考能力はまるっきり健在だった。

4人で車に乗り込み弘前へと向かった。
車内では不思議と何事もなかったかのように昔のままの雰囲気に戻っていた。
「これってなんか順番ちがうんじゃないすか」
わざとらしいがおそらく本心も含めてK2号は運転する私へとふってきた。
「そーだ、そーだ」
後部座席のカミさんの横で偉そうにふんぞり返って座っているHがおぼつかない言葉で続けた。
「確かに・・・って、アホかお前ら、年上だからって病気は関係ねーつうの」
まるで決まっているかのように私は言葉を返した。
この気の抜けた流れは、まるでいつものそれではないか。
悲壮感などといった湿っぽい重力など微塵も存在しない、私達だけのこの空間では普通がいちばんいいのだ。他愛ない会話がやけに心地よく回る。
弘前までの約一時間の道のりは案外楽しいものとなった。
リハビリ病院へとついてもHは懸命にひとりで歩き、絞り出すように一語一語言葉をつくり、そしてまだそこにわざわざよけいなジョークを交えた。大病に至ってもいささかめんどうくさい男だ。取りあえずおとなしくさせるために車椅子へと固定した病室は個室で、まるで未使用ではないかと思われる程にきれいな部屋であった。Hはその部屋の中央に置かれた真新しいベッドに自ら乗りあがると、早速カバンに詰め込まれた荷物を整理し始めた。中から取り出した下着の束を傍らに立つK2号へと無造作に手渡した。
「それ・・・そこ」
Hはベット横にセットされているクローゼットを指差した。どうやらその下着をそこの引き出しの中に入れておけと言う事らしい。手渡されてキョトンとたたずんでいたK2号は軽くうなずくとその指示に従った。つぎに歯ブラシなどの入る洗面道具入れが取り出され、それもまたK2号へと手渡された。再びその指先にて洗面所への指示がなされた。
「殿様かおまえは!」
K2号の口から辛辣だからこそ笑える言葉が飛びだした。K2号の辛口はおもしろい。
その後リハビリの各先生方が次々にこの部屋を訪れ初対面のあいさつと今後のリハビリについての簡単な説明がされた。私たちは傍らでじっとその受け答えを注視しているしかなかった。最後に栄養士のオンナ先生がやってきて食の好き嫌いについてHに尋ねた。
「Hさんは、食べ物はなんでも大丈夫ですか?」
「はい・・だい・・じょ・・う・・ぶ」
間髪いれずにHは答えた。
私は違うと思った。
「おまえ、野菜だめだろ、ニンジンなんかぜったい食わないじゃん」
「そうだよ、野菜全般食べないくせに、またなに言ってんの・・・」
あきれかえった顔でカミさんが続けた。
「そうなんですか、野菜だめなの・・・」
栄養士さんが驚いた様子でHに尋ねなおした。
「エッヘッヘッ・・」
こんなところで寒いジョークをかましやがって、どこまで楽天的な男なのだ、この極めてしんどいだろう状況を逆手にとってまるで楽しんでいるかのようにもみえるから不思議だ。
和みの空気感はあたりを丸く包み込み、私はHに対して頼もしささえ感じてしまった。

人のために一生懸命になれるバカが付くほどのおひとよしで、頭のてっぺんからつま先まで妥協をゆるさない洋服大好きの洒落者、そして目指す先にある何かを常に追い求めては具現化しようと悪戦苦闘し続けながらも頭の中はHDのカスタム思案が大半をしめているといった、単純にしてわかりやすい男だ。
まだまだやりたいこと、やらなければならないことがたくさんあるはずだ。もらった命、大切にしてほしいものだ。
「治りたい」
その強い気持ちのなかになにかが見えてくるのだろう。
まだまだ人生の途中、この機会にじっくりと自身の体と向き合ってみてほしいものだ。
過去をふりかえる年頃になったら楽しい時間を共有したい数少ない友人のひとりだから。

それから3日しての休日の夕刻、私は庭の一角でベンチに腰掛け懐かしの昭和歌謡を聞きながらビールを飲んでいた。西の方角は茜色に染まってはいたものの未だ透明な青みを残す大空をぼんやりと見上げていた。すると、銀色に輝く丸い物体が姿を現した。その物体はゆっくりと東から西へと移動している。
私にはすぐにわかった、それがUFOであると。
私は祈った。
「Hをよろしく!」
流れ星ではあるまいが、とっさにその思いが頭に浮かんだ。
UFOは黒く変色しそしてまた数秒後銀色に戻った。まるでOKサインでも出すかのようにその点滅を3回ほど繰り返すと、そのまますーっと消えた。
うまくいくかもしれない、私はグラスに残ったビールを飲み干した。

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