Column

第93話  その先にあるなにか

  ズドドーーーーン!
とびっきりな号砲が真っ青な大空に向かって解き放なたれ、そしてこのあたり一帯にちょっとした振動と小気味よい炸裂をもたらした。それと同時に私達は走り出した。
第30回うみねこマラソン大会。
私にとっては2回目のマラソン大会であり、初めての10キロマラソンである。
かつてマラソンなどと言った、ただただ苦しいだけの競技などには全く興味などなく、もちろん学生時代の体育祭等にあってもそれらの競技でまともに走った事などはただの一度もなかった。それがどうしたことか、年を重ねるにつれてなにやら健康に留意してみたりして・・・まずは足腰でも鍛えてみようとウォーキング、そこから少しだけ走ってみたらやっぱり苦しいけれどなんだか爽快、そうこうしているうちに自然とジョギングへと意識
が変わっていった。
そんな他愛ない流れからわざわざこうやって自ら申し込んでまで悶絶の苦しみの集合体の中の一員として参加している。青天の霹靂とはよく言ったものだ。
「おいおい、たった今走り出したばかりじゃないすか、もう息が上がってるし。大丈夫なの?」
一緒に参加し、少しだけ私の前を走るIが、スタートしてすぐにハーハーゼーゼーと真っ赤な顔で荒く息づく私に向かってそう叫んだ。叫んだだけならまだしも、奴は遅れている私の方を向きながら、世間で言う後ろ向きに、そう、憎たらしい程に余裕たっぷりと走っているのである。なんという屈辱的横柄な態度。
「大丈夫に・・決まってん・・フー・・じゃん、ゼーゼー」
ありったけの力を込めて私は奴に言葉を返したつもりだったが、まともに返っていないことは、まぁ確かだ。
「そんなんじゃ時間内にゴールできないっすよ。もっとスピード出してよ」
追い打ちをかけるように辛辣な言葉が続き、次に奴は軽やかなステップで前に向き直りまともに走り出した。
こんちくしょうと思いながらももっともな言い分に言葉を心の奥底にグッと押し込む私。
しばらくはその情けない状態が続いていたがこれではいけない、私はひとつ大きく息を吸い込み、そのままの勢いで少しだけ走るスピードを上げてみた。つらいところだがこのまま引き下がるわけにはいかないから。
ぐいぐいとスピードを上げて前を走るIと並んでやった。
「なになに、やれば出来るじゃん」
ちょっとだけおどろいた様子だったがすぐにそっけない顔にもどるやまたそんな憎まれ口をたたいた。

このスピード感はどう考えてみても私が普段ジョギングで走っている時よりは断然早いスピードである。それでも一時的なものならなんとかなるが、経験のないこんな未知のピードで10キロもの長い距離をずっと走りつづけることがはたして出来るのだろうか、心配になる。
同レースに参加しているトップクラスの選手たちはすでに私の視界に収まっている訳もなく、この下位集団にあってもほぼ皆、これくらいの早いスピードで走っている。
まったくたいしたものだと心底感心してしまう。
やはり、私とてこんなところで負けてはいられない、なんとか食らいついていかなくては、そう心に刻んだ。
そうこうしてなんとかIの後を必死に追いかけながら3キロほども走っただろうか、右わき
腹に鈍い痛みが走った。肝臓のあたりだろうか。昨夜我慢できずに缶ビール1本だけ飲んだのがいけなかったのかもしれない。やめておけばよかった、と後悔が走った。私はスピードを緩め右手で軽くその痛みのある部分をさすりながらレースを続けていた。
「ちょっとちょっとーなーにやってんの」
目ざとい・・・。
私の不調に気付いたIがどれどれとばかりにスピードを緩めてやってきた。
「なんでもないよ、なんでもあるわけないだろ、ゼーゼー」
私はそんな強がりを発してみた、このまま腑抜けにだけはなりたくはなかった。Iに察知されるまでの少しの合間だが走りを緩めたせいもあり痛みはほんの少しだけだが緩和したような気がする。再び私はその流れのスピードにまで追いつき、そして走り続けた。
「もうちょっと早く走れないの、これじゃあ絶対に時間内にゴール出来ないよ」
レース当初から目にしてきたそのあきれ顔でIが言った。
「バカ言え、これ以上スピード上げたらゴールどころか、先に心臓の方がゴールしてしまうわい」
「アッハッハッハ――――――――!」
早くも日に焼けたのか、ほほを赤く変色させたIは大いに笑った。
こいつにだけは絶対に負けたくない、そう心を震わせた。
「おっそうだ、あのコ、あのコ見える」
Iは私たちの5メートル程先を走っているひとりの女性を指差した。
「なに、あの白いトランクスのコかい、ゼーゼー」
「そうそう、俺たちをたった今追い越して行ったあのコ、プリッと張りのあるあのおしり、好きでしょ」
闇雲にも程がある、が、決して嫌いではない。(前話といいおケツ話がつづく)
「それがどうしたんだよ、そんなのお前に関係ないだろ、こんな時に・・ゼーゼー」
「それがあるんですよ、あのコのいけてるペースで走るんですよ。あのコのあの魅惑的なおしりを目指して走るんですよ、それなら俄然行けるでしょ」
なんという的確で画期的でそれでいてわかりやすい提案。
「そうだな、それはいい考えだ、それならこの半端ない苦しさも半減するかもしれないもんな・・ゼーゼー」
「そうそう、そうと決めたら行きますよ、レッツラゴーゴー」
不純と言えば不純だがそんなことを気にしている場合ではない事を十分に理解している私は素直にそれに従うことにした。
単純すぎるが、なぜだか力が湧いて来た。
目標をもつということがどんなに必要な事か、目標をもった人間の強さを知った気がした。
タッタッタッタッ、軽やかに足が進む。・・・・・のも、つかの間だった。じわじわと離され、同時にペースが落ちた。
そのコはあまりにも早すぎた。
とても昨日今日走り始めた私がおいそれとついて行けるレベルのコではなかった。その妖艶な後ろ姿はどんどん私を置き去り、そして視界の先から静かに消えていった。
「なにやってんすかまったく、本当に練習してきたの、あれほど走り込むようにって言ってあったでしょ・・・」
ブーブーとIの厳しい言葉が私の充血して突っ張った鼓膜を刺激する。
が、たった今まで過激にペースを上げて走ってきた私にはもはや言葉を返す気力もうすれ、はるか前方に目の焦点を合わせたままに聞き流すしかないといった情けない状況。
それほどまでに私は心底疲れきっていた。
普段のジョギングでは味わえないほどの疲労感が私のやる気を削ぎ落そうとする。
しかし、しかしここで負けるわけにはいかない。ここで負けてしまったら後生Iになんて言われ続けるかわからない。そんな事は考えただけでもおぞましい。
「走れ、走りきるんだ!」
私は朦朧とした意識のなか、そう心で叫んだ。

どうにか折り返し地点まで達した時、そこには水が用意されていた。命の水である。私はさっそくその水を手に取りグイッとひとのみ、「うまい!」、隣ではIもその命の水をうまそうに飲みほしていた。軽そうに走ってはいるがやはり奴だって疲れているのだ、首筋を流れる汗をみてそう感じた。
目標はとにかく完走することだ。
私は先を行くIだけを必死に追いかけた。残された手段はそれしかなかった。何かを、誰かを指標に走らなければ気持が折れてしまう。まるで邪悪な悪魔をにらめつけるように視線の先に奴を捕えて走った。あたりの景色ははっきりとした輪郭をなくしぼんやりとした陰影をふるわせるだけの存在に映り、視界は極めてせまくなった。頭の中はまるでからっぽになり、無の境地そのまま、5月のよわよわしい陽光を背に私は懸命に走り続けた。

最終的にはそれが功を奏した。
Iにはやや遅れたものの、その10キロという長丁場をなんとか乗り切ることができた。私ひとりでは途中どうなっていたか、わからない。あまりの苦しさに棄権していたかもしれない、そう思うとペースメイクをしてくれたIに感謝しなくてはならない。あの憎まれ口があったからこそ私も燃えた、そう言ってもいい。ありがとう。
走り終えた私の気分は爽快そのものだった。
やり遂げたという達成感と精神の解放、そして疲れ切った体に春風が心地よい。

そんな懐かしい思いを胸に、今回はハーフに挑戦だ。
果たしてさらなる長丁場、どうやってうまく乗り切ることができるか今から楽しみだ。
ただ・・・Iとは、少し、離れて、走ろうと思っている。

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