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第92話  哀愁の銭湯記

  パタパターン!
銭湯の玄関ホールに鳴り響くあの音、下駄箱から取り出した履物をポイと床に放り投げたときの乾いた響きが、私は好きだ。
今日一日のアカをきれいさっぱりと洗い流したその小奇麗な体の塩梅もそうなのだろうが、大きな湯船にゆったりと身を任す極楽的儀式を済ませ、この日が無事に終わっていく充実感と体温の上昇を伴う安堵感につつまれ「さあ、温かい布団の敷き詰めてある家へ帰ろう!」といった充足感がそこには生まれている。
幼く、未だ祖母の家に世話になっていたころの私は、その祖母と一緒によく近所の銭湯へと足を運んだものだ。確か小学3年生に上がるあたりまで。
当然のごとく女風呂であるがなんのためらいもなく、私は数多くの女体という女体にまみれ、またごやごやともまれながらもその幼少時代のしょっぱい汗を流した。
それより遡ること数年前の幼稚園児だった頃の私は、折り目正しいベイジュ色のチノパンに包まれた、マシュマロのようにやわらかそうに見えながらもプリッと張りのあるオンナ先生のお尻が大好きで、よく間違えた振りをしてはさりげなくソフトタッチしてみたり、また間違えた振りをしては谷間に顔をうずめてみたり、そしてまた間違えた振りにもだいぶ慣れはじめた頃、調子に乗ってカンチョーをした時には思いっきり平手でぶんなぐられては鼻血をまき散らしたりもしたものだった。それがなぜだか、少しだけ成長したこの頃には不思議なくらいに、あの魅力的な大人の生尻もそんなに私の心に火をつける程の代物ではなくなっていた。今考えてみても本当に不思議な時期だった。
また、時には同級生の女子ともかち合うことがあったが未熟なものに対しては、当然私自身も未熟なくせにいっさい興味を持つことはなかった、が、女子の方は違っていた。
やはり同級生男子と一緒の風呂というのには少々まいっていた様子で、私の前からこそこそといなくなってしまうが常であった。翌日学校の教室で何度かそれらしいことを言われたことはあるがそんなことはお構いなしである。なぜなら、私には祖母と一緒にそこに行くしか手段が無いからだ。そんな質素な環境のなか彼女達に何を言われようとどうってことはないのである。
その銭湯通いにおいてなによりも私を夢中にさせたのは「マブチモーター」の存在である。当時一世を風靡した玩具で、その全体像は10㎝程の長さのある円柱形で幅は3㎝程、先端はやや丸みを帯びた形状をしていて後端には小ぶりなスクリューが装着してある。言わば単三の乾電池にモーターが付いた形、まるで小さな魚雷といった風貌であり、これがまた大きな湯船を縦横無尽に泳ぎ回るからおもしろい。そのマブチモーターが進む方向に、しっかりとついていくように私は湯の中にもぐり、そして泳ぎ続ける。どこまでもどこまでもそれを追いかけるのである。それが私にとっては何事にも代えがたい至福のひと時であった。
そんなある時、そのマブチモーターが、熱い湯船とぬるい湯船の境界壁の底側にある30㎝四方の穴に突き進んだことがあった。私もなんの気なしにその穴に向かって突き進んだのだが肩のあたりで引っかかってしまった。遠ざかって行くマブチモーターが気になりますますバタ足で前に進もうと懸命になったが、これがいけなかった。肩から腕にかかる部分でがっちりとその穴にはまりこんでしまったのだ。さあ大変、後にも先にも進めない。顔面側の湯は熱いし当然息ができない。私の意識は消しゴムで消されていくように簡単に薄れていく。残った最後の力を振り絞り、未だ自由がきく足をじたばたと振り回した。するとその足が誰かのどこかを蹴った。たまたま側にいて蹴られた哀れな御婦人の機転のおかげで私は一命を取り留めたのだった。学習能力の乏しかった当時の私は、その後も懲りずに何度かそんな危険に遭遇したのだが、そのたびに何度もうまく助かった。
もちろん今はもうしない。
祖母は近所の知り合いやら古くからの友人やら、あちらこちらで声を掛け合い笑い合いそしてまた風呂につかり一息つくとゆったりと目を閉じ深い息を吐く。実に楽しそうだ。
これが地元に根差した銭湯というものだ。
私は十分に遊び、また祖母は十分に充実した時間を過ごす。
「そろそろ出るべ」
待ちに待った祖母のひとことで、私は私の黄色のプラスティックの風呂桶に急いでエメロンシャンプーと矢尻程に薄くなった固形石鹸の入ったブルーの石鹸ケースと大事なマブチモーターと使いふるされて黄ばんでしまったフェイスタオルを突っ込み、うす暗くも広大な更衣室へと向かう。
風呂桶を自分の脱衣カゴへと放り込むと、素っ裸のままで一目散に向かうのが瓶入りコーヒー牛乳が詰め込まれているガラス戸の冷蔵庫である。そのガラス扉をスライドさせてその中からたっぷりと表面に水滴をたたえたコーヒー牛乳を一本左手で取り出し、冷蔵庫サイドに輪ゴムをつないだヒモにつるしてある紙蓋抜きを使って、そのコーヒー牛乳の蓋をピンクのナイロンカバーごとパカッとあける。
そしてまず、そのコーヒー牛乳の口に鼻を近づけてその臭いを確かめる。
んんーん、本日もいいかおりだ。
次に軽く一口ズズッとすする。鼻腔にあまったるいコーヒーのかおりがまったりとへばりつき、次に脳天にふわりとぬける。またズズッとすする。またまたそれらが鼻腔をくすぐりトルネード方式で脳天へと舞い上がる。自然と右手は腰のあたりに添えられている。
うまい、なんてうまいんだこのコーヒー牛乳ってやつは!
もったいないのでたっぷりな時間をかけて、ちょっとづつちょっとづつちびちびとコーヒー牛乳を飲み続ける。
「おいおい、早ぐしろ」
すっかりと着替えの終わった祖母の声が大きな更衣室中にこだまする。
「はーい」
幼いころはなんて素直な私、は、そう言ってビンの中に残った少しばかりのコーヒー牛乳を名残惜しくもググッと飲み干す。
木箱でできた空きビン入れにその空いたビンをもどし、すでに自然乾燥してしまっている体に、洗いたての短パンとTシャツをササッと着込むとすでに玄関脇にある番台へと向かい私の飲んだコーヒー牛乳代金を払いつつある祖母の後を追う。
「いつもどーもね」
「ありがとう」
番台のおばちゃんのひとことにそう返答しながらその脇を通り過ぎ、ざらついた曇りガラスのはめ込まれたスライド式の大きなドアをガラガラッとあけると、適度に乾いた心地よい風が私のほほをなでる。
ほーっと一息もれる。
褐色に古びた木製の下駄箱から履き古したサンダルを取り出し無造作に床に放る。
パタパターン!
軽やかな音が飛散する。
楽しかった今日はとうとう終わった、明日もきっと楽しいことがあるだろう、さあっうちへ帰ろう。私は投げ出されたそのサンダルに火照った足を入れ、祖母より先にその玄関のドアを開いた。
すでに頭の中には思考のかけらもない。

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