Column

第88話  あたらしいいちにち

  早朝のジョギングも、かれこれ4年目に突入した。
熱しやすくさめやすい、まるですり減ったビーチサンダルように薄っぺらな私の「やる気」、にしてはよく続いているものだと感心してしまう。
何かの為とか、こうなりたいからとか、背負う十字架的重圧がない分すんなりと続いているのかも知れない。ただ単に走りたくなるから、使い古されたあおくさい言葉だが最近の心境としてはそれだけである。
しかし、やっかいな事がひとつだけある。
近頃、左胸に軽い痛みがあるのだ。それは走っている時に限定されるのではなく、普段の生活のなかでもちょくちょく発作的に起こるようになってきた。そのちょっとした痛みの存在を自覚している時には、やはり一度病院へでも足を運んでみようかとも真剣に考えてみるのだが、暫くして何事も無かったかのようにこつ然とその存在がうすれてしまうと、病院といった存在すら用を無くしてしまう。優柔不断な無知の骨頂である。

  その朝も左胸、ちょうど心臓の上部のあたりに軽い痛みが沸き上がってきた。その痛みの部位は、名称で言えば何にあたるのかは医学の見識に乏しい私にとっては皆目見当も着かないのだが、体のほんの一部でも「痛い」と言うのはやはり良いものではないだろう。
朝起きがけにはそのような痛みの兆候は微塵もなかったのだが、準備運動が終わりウォ−ミングアップの為に早足で歩き出していると、じんわりとそれが芽を出しはじめ、規則的な呼吸時の筋肉の強張りのたびにチクチクと、小さな甲虫でもその部分でもがいているようななんとも嫌味な具合となった。もしこれが急激に強く痛み出したのなら危険かもしれない、などと思いながらも、その微妙な感覚をぐっと我慢し、騙し騙し徐々に走るスピードを上げていくと、いつのまにかまたその痛みは綺麗さっぱりと消え去っていった。

  一周回れば5キロ程度の、私自身が勝手に銘打った『ショートコース』も終盤に差掛かったあたりの三叉路の角で、見慣れない婆さんが古ぼけた椅子に座ったままの格好で汗まみれの私に大声で話し掛けてきた。
「あんたら、朝っぱらから一生懸命だな。」
私はふと立ち止まるも、その場でランニングをしながら言葉を返した。
「あっおはようございます。雨がなければ毎日走ってるんですよ」
「そうかいそうかい、そりゃいいこったな。今日は雨は無さそうだしな。いやいやいやーまだ、メンコイごと」
「えっ!」
ひと昔前の雰囲気にたっぷりと包まれたこの婆さんはいったい何を言っているのか私には皆目見当もつかなかった。すでに世間ではおっちゃんの部類に属する私の足元の空間を眺めながら、「メンコイ」ってどう言う事なのだ。私のくるぶしあたりの出っ張りがチャーミングだって事はどう転んでもありえないだろう。たった今、私の周辺をぐるりと眺め回したところで朝を向かえた白く新鮮そうな空気が漂っているだけで、他になんにもありゃしない。では、健忘症が進みつつある私なんぞには到底キャッチなど出来ない「何か」がこの足元に存在するとでも言うのか?
それにしても、そんな事を言っているその婆さんの服装が気になった。昔、私の祖母が野良仕事の時によく着用していた藍染めのモンペを履いているのである。今どきこんなクラシカルなモンペを履いている人を見る事なんてそうは無い。何か時代の歪みの割れ目から垣間見る懐かしさのようなものを感じた。
様々な考えが巡り、私が言葉を失っていると再び婆さんが話し始めた。
「それにしてもあんたは小柄な割に走りが重そうだな、しっかり走らないとだめだなその腹回りは。うちの息子もそうなんだよ、もう80になるんだが運動もしないからぶくぶく太って太って、だめだなありゃ。」
婆さんは深い皺を波打たせながら、それより深いため息をついた。
そんな事は私にとって大きな御世話であり、またその息子の話だって私にとってなんの関係もない話である。私は取合えず「そうですね」などと曖昧な返事をしながら、これ以上関わっても何か突拍子も無い事を口にして、話が長くなりそうなので早々にこの場を抜け出す事にした。
「そろそろ時間なんで行きますね、それじゃおばあちゃん、またね」
「はいはい、御苦労さん、はいはい、気—つけて」
婆さんはそう言うと深い瞳を閉じる様ににこりと微笑んだ。
私は再び走り出した。
その場でランニングしていたとはいえ、やはり体が冷えて来ていた。カゼをひいてはもともこも無い。
しかし、変わった人もいるものだと走りながら思った。
確か息子が80才と言っていたが、仮にそうだとしたらあの婆さんはゆうに100才を越えているか、まあそれに近いはずだ。だけどどう見たって70そこそこにしか見えない。本当なのかな?そう思った私は少し離れたところまで来たのであの婆さんの様子を伺おうと振りかえって見た。
婆さんの姿はどこにも無かった。
古ぼけた木製の椅子だけが使われた形跡も無く、ぽつんと孤立したままそこに佇んでいるだけだった。
いったいどこに行ったのだろう、こんな見通しの良い所で・・・。
思い違いでもしたかの様な違和感を覚えながらも前方に視線を戻すと、直ぐ先に懐かしい顔があった。ここ半年程見かけなくなっていた顔だ。年令もそこそこいっていたし、もしかすれば・・・などと考えたりもしていた。私はその爺さんを、まさか爺さんとは呼べずにお父さんと呼んでいた。私が走る時間に決まってこのあたりでタバコを吸いながらぶらぶらと気の向くまま漂うように歩き回っている70がらみの爺さんである。
おはようございます、と私が声をかけると、「おうっ」とタバコを持った右手を肩より上まで上げて爺さんは答えた。
以前よりもなんだか顔色がいい、まるで若返ったみたいに私には見えた。
「おう、あんたまだ走ってんだ。せいがでるな。」
声がやや高音質に変わった様な気がするが、いつものぶっきらぼうな物言いだ。しかも「まだ」とは、さっきの婆さんといい、まったく大きな御世話である。
だが、こんな風にものを言えるのも元気な証拠、しばらく見なかっただけに一安心だ。
「いやー脇腹の肉が落ちなくて、かなり走ってるんですけどねー。」
「まあ気長に走ってればそのうち落ちるさ」
「そうすね。ところでしばらく見かけなかったけどなんかあったんですか?」
「ああっちょっと入院してたんだけど、な・・・」
何か納得の行かない事でもあったのか、爺さんは頭をひねった。
「けどなーって、いったい何処がわるかったんですか」
私は、今が元気そうだからかまわないだろうと尋ねてみた。
「俺もよく解らね−けど、あちこち検査した事だけはよく覚えてるよ、それからがあまりよくわからね
だ・・・・だけど、昨夜からは体が軽くなってな、いい気分なんだよ。なんだかこのまま空でも飛べそうだ。ハッハッハッハ−ー!」
タバコを持った右手を天にかざしながら爺さんは笑った。
見てると歩く感じもなんだか以前よりも軽快だし、なんといってもそのかつ舌がよくなっているのにも驚いた。
「まあ、あんたもせいぜいがんばれや。がんばればその腹も少しはへこむかもしれねーし、なーっ。ハッハッハッハッハ−」
今度は私の足元のあたりに視線を合わせながら、なっ、と言って笑った。
あの婆さんと同じだと思った。
まさか何かが見えるとでも言うのか?そんなバカな事はないだろう。偶然に決まっている。
「それじゃそろそろ失礼します、お大事に!」
私はかるく頭を下げて、またまた冷えた体を震わせながら走り出した。こんなに止まっていては本当にカゼをひいてしまう。私はアスファルトを力強く踏み締めて走る速度を上げた。
そこから数十メートル程過ぎてなんとなく後ろを振り返ってみると、不思議と爺さんの姿は無かった。タバコの白い煙だけが天へと掛け登って行く風景が微かにあるだけだった。
どうも奇妙な日だ、人がマジックのように消えてしまう。
あたりの景色はモノクロームに侵食されて、音という音は全て灰色の空に吸い取られていた。とても静かだ。

「ダイかな」まさか?
だけど、ダイだったらいいのにな、と思った。
現実とはどこか微妙に噛み合わない視線の先を流れるゆるやかな時間。
さっき会った、あの爺さん婆さんは・・・本当にいたのだろうか?
そして・・・この私も。

「さあっいこうか、ダイ!」
私はまっさらの空間に向かって声をかけた。
私の体は一瞬重力を失い、そしてふわりと浮いたような気がした。

あらゆる想いは昨日に置いて、あたらしいいちにちがはじまる。

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