Column

第87話  難敵に対う

  インフルエンザ本番の季節となった。
奴らウイルスは気温が低下し空気が乾燥しだすと活性化し暴れだす。
感染経路はどうやら従来の風邪と同様らしい。そのインフルエンザはA型、B型、C型に分類されるが、特にA型には多くの変異株がありそれらが大流行を巻き起こすと言う。今年は既にその新型が出現し、夏季あたりから各地で猛威を振るっていた。
私が前髪を眉上で寸分の狂いも無く水平にカットした上品な坊ちゃん刈りを売りにしていた小学生の頃、クラス内で誰かひとりが風邪をひくと、仲良く分け合うようにウイルスが均等に全員に行き渡たったものだ。それから数日も経つと学校中マスク姿だらけ、陰鬱とした湿っぽい空気が輪郭も無く辺を漂っていた。
衛生管理の劣っていたこの昭和の後期頃は、現在よりも学級閉鎖のニュースが多かったように思う。校内に蔓延したそのウイルスを漏れなく貰い受け、案の定高熱にうなされ続ける私の後頭部には、氷まくらと呼ばれる秘密兵器がセットされていた。ゴム製のまくらで中に氷と水を詰めて首筋を冷す奴だ。
熱が40度にまで達するかといった勢いで水銀が目盛りを次々と塗り替えて行く。やっと止まってくれた位置は39度、体内ではウイルスと免疫との熾烈な戦いが繰り広げられているに違いない。
面白いように跳ね上がったその高熱はカマドウマが嫌いな私の繊細な意識を朦朧とさせ、激しい頭痛と時々襲ってくる吐き気は、未だ九九が出来なかった私を苦しめ続ける。
しかし、そんな肉体的な攻め苦よりもさらに私にとって危機的な恐怖が次第に迫って来ている。
うつらうつらと布団の中、それは夢と現実のあわいに姿を現す。
目蓋を閉じているはずの私の網膜には、行った事も無い何処か見知らぬ街並と際限の無い深い灰色の空が広がる。その映る光景の異常なまでの大きさと、アリンコ程の私との関係性があまりにもアンバランスで、驚異的違和感と心細い孤独感のダブルパンチの中、小さな心がいまにも粉々に砕け散りそうになる。
この異様な状況で、奴が現れるのだ。
濃淡の異なる灰色が入り交じる遠近の曖昧なその大空を、ひと際大きな黒い「無」が押し寄せて来るのだ。じわりじわりと身動きの取れない私目掛けて迫って来るそれは、途中に映る全てを飲み込みながら突き進んで来る。薄暗い意識の中で懸命に逃げようと後退る私に向かって執拗に。
その絶対的恐怖に私は体が硬直し気が狂いそうなる。
それでもなんとか気丈に正気を保ちながら、立ち向かう手段さえ無いこの時間を懸命に耐え忍ばなければならなかった。
風邪をひくと決まってこの幻影に苦しめられた。
元気な時までも風邪をひいたらあの恐怖がやって来るという意識に怯え、風邪をひきたくはないと願えば願う程にあっさりと風邪をひいたものだ。
まぁ、人生とはそう言うものだ
苦節6年、悩み続けていた私はついに打開策を見つけ出した。
ヒントはテレビ画面に映るヒーローの握る剣にあった。
「そうだ、もし今度奴が表れたら空想の剣を持って戦ってみよう」
単純な私はそう考えた。漠然とだが、なんだかやれそう気がした。
決戦の時は直ぐにやって来た。
その巨大な黒い「無」は私のかざした心の剣であっさりと真っぷたつに割れ、そして霧散した。見知らぬ景色と共に何処かへと消え去った。
永年続いた暗黒の恐怖からやっと解放された瞬間だった。
不思議な事にそれからは風邪をひく回数が激減した。
おそらく心の勝利だろう、また、それに伴って免疫力も多少アップしたのかもしれない。帰宅後のうがいや手洗いはもちろん大事だが「風邪には勝てる」という強い気持ちも必要なのかもしれない。

(デーリー東北新聞連載・第7話)

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