Column

第84話  明日はどこにある

レースのカーテンをいとも簡単に突き抜ける強烈な朝の日射しが、まったりと寝込んでいた二日酔気味の私を覚醒へと導いた。
寝返りを打ってはみたがどうやらもう眠る事は出来そうも無い。
けだるくも薄目を開けてあたりを見回すと目に入る全ての空間が淡いオレンジ色に包まれて浮き足立っている。
天に突き抜ける青く大きな空が頭の中で連想された。
私はすくっと起き上がった。
この頃年を重ねたせいか朝起きる事に対してそれ程の苦痛もない。
そのまま急な階段をおりてキッチンへと向い、そこでコップ一杯の水を一気に飲み干す。これは近頃いつもの事だ。どこかのテレビ局の何かの番組でやっていた健康法のひとつらしい。簡単な事なので毎日続けている。
それで健康になったのか?と聞かれれば、それは解らない。
空になったコップをシンクに放り投げ、次にベランダ側のカーテンを勢い良く左右に押し広げるように開き、大きなサッシ戸を全開に開け放った。
本日の太陽は何処までも御機嫌の様だ。
庭の芝がその太陽の強い光を浴びてはその青を乱反射させ眩しい程に生き生きと茂っている。
「今日はくそ暑くなるな!」
確信が過った。
そんな時だった、芝庭の向こう側にある幅2メートル程の私道の中央部分に一匹の猫が座っているのが見えた。色はまるでライオンの子供の様なベージュ色の美しい毛並みを有し、まったく落着いた様子で右手を使って顔をのらりくらりとぬぐっている。ちょうどその手先と言うのか指先と言うのか、そのほんの少しの部分だけが白色でとてもチャーミングだ。しかし目元には少しばかり白髪のような異質な毛がまばらに生えているのが見えた。ハッキリとは解らないがそれ程若くはないのかもしれない。猫の年は私には皆目わからない。
その艶やかな毛並みの持ち主はさっきから目をつぶったまま何度も何度も気持良さそうに顔をぬぐい続けている。永年ここに住んでいるだろう、あたりを気にする様子も無い。この道は滅多に車の通る所では無い事をどうやら百も承知らしい。賢いものだ。
私が小学校3年生の頃だった、トトが死んだのは。
幼い頃、私は祖母の家で生活をしていた。幼稚園に通う少し前あたりにあずけられたのだが、すでにそこには三毛猫のトトが住んでいた。言わば、私にとっては先輩の住人であり、事実トトもそう思っていたようだ。
朝、そう毎朝だった。トトは私の目の前にその朝の成果を運んで来た。ある時はネズミであったり、ある時はスズメであったり、毎日何者かの屍を運び続けた。決してそれは弟分の私にその獲物をくれる為の行為ではなかった。ただ単に自慢したかったのだ。朝、私が寝惚け眼でボーッとちゃぶ台の前に座っていると、獲物を口にくわえたトトがとことこと私の目の前にやって来ては、ポトリとそれらを床に落とす。初めの頃、私は驚いて後ろにのけぞってしまっていたものだ。
落としたその獲物を前に、トトは決まって私の顔を覗き込み、ひとなきする。
「どうだ、お前に出来るか?」
間違い無くそう言っている。
そうして一通り自身の有能さをアピールした後、まるで勝ち誇った様子でその獲物をくわえ直しては再び私の顔をちらりと覗く。そしてゆっくりと振り返り、優雅に立ち去って行くのだ。
無知で軟弱な私の為にこれからの生き方や日々の厳しさを教えてくれていたのかもしれない、と、今にしては思う。
ただ、それ以外の時は違っていた。
夜は私達と一緒に御飯を食べた。もちろん冷や飯に味噌汁をかけただけの「猫まんま」と言うやつだ。その器の中に私達の貴重なおかずが時に入る事はあったが、かなり稀であった。眠くなるとトトは夏冬構わず常設のダルマストーブの横で寝た。お勝手のトビラに近いと言う事もあったが、やはり寒い冬の時期には申し分のない場所であった事は言うまでも無い。寒い日、ほぼ1日をとおしてそのいつもの場所で丸くなってトトは眠っていた。夏は夏で夕方、ふらりと帰宅しては、その定位置でまったりとくつろいでいたものだ。室内にこもった暑さにたえかねると大きく伸びただらしない格好で這いつくばった。それでも涼しくならない夜などは、またふらりと夜気にあたりに出掛けて行った。
そんな自由気ままなトトが私は大好きだった。
トトが姿を見せ無くなったのは私が小学校の3年生に上がった最初の夏休みを向かえたあたりだった。いつもの場所に夜になってもトトは帰って来なかった。今日は暑いから夜は外で過すに違い無い、明日の朝にはここに帰って来るだろうと簡単に考えていた。しかしその次の日の朝にもトトの姿を見る事は無かった。翌日もまた翌日も、その姿を見せる事は無かった。
「トトはもう死んだがもしれないな・・・」
祖母がそっけなく言った。
「えっ!」
考えも及ばなかったその言葉に、私はすっかりと返す言葉を失った。
「トトももう十分年だったし、猫は死んだ姿をさらさないもんだ。どっか行ったんだべ」
自然の摂理を十分に知り尽くした聖者の様にたんたんと祖母は言った。悲しいといった感情は一切祖母から感じ取る事は出来なかった。まるでそれがあたりまえであって、自然的にこうなるものだといった動揺のない冷静な沈黙。
とうとうトトは帰って来る事はなかった。
私は淋しかった。
弟分であった私はトトの事を考え、そして暑い夏をやり過した。

そろそろ日課であるジョギングに出かける時間だった。
ショートパンツに着替える為にリビングルームへ向かおうと私が身を翻した時、そのライオン猫がのっそりと立ち上がったのがちらりと見えた。私は瞬時に立ち止まり、その行動を目で追った。ライオン猫はけだるそうに一歩一歩と歩くたびに肩甲骨を上部へ突き出しながら前へ前へと足を運んだ。これがまたのろいのなんのってとんでもない。それこそ、獲物をたらふく食ったあとの平和そのもののライオンと言った感じだ。よっぽど太陽の光が眩しいのだろう、目は半分閉たままだ。のっそりのっそり緩やかに風が過ぎて行く。私の視界から消え去るまでに気の遠くなる程の時が過ぎ去ったような気がした。

私は急いでショートパンツに着替えてジョギングの為の準備を始めた。寝起きで固くなっている首をぐるぐると右から左から幾度も回転させ、次に屈伸運動をした。膝を曲げたり伸ばしたり、またアキレス腱を丹念に引き延ばしたりした。
ひととおりの準備運動を済ませた私は、さっきライオン猫がくつろいでいた車の通らない私道へと出てこれまた走る前準備としての歩行を始めた。走る前の500メートル位はなるべくしっかりと歩くようにしている。私道をとことこ歩いていると前方50メートルのあたりに車の通る本線が見えて来た。本線とは言ってもたかだか5メートル幅の薄汚れた舗装路だ。私は一旦その合流地点で安全確認の為に立ち止まり、左右の確認をした後本線を横切りその本線の向こう側へと渡った。そして再び歩き始めた。
すると、その本線の私が向う先20メートルあたりのセンターライン上に、何やら得体の知れない茶褐色の物体が転がっているのが目に入った。汚れた麻袋かなにかだろう。ここはよくトラックが通るから仕事用に荷台に積んであり、それが風にのって飛ばされたのかもしれない。良くある事だ。
私は両肩を回すストレッチをしながら歩を進め顔面にじわじわと滲んで来る汗をTシャツの肩の部分でぬぐった。徐々に体の火照って来るのを感じながら、センターラインあたりにぶちまけられたその物体に視線を合わせた。

ライオン猫だった。
それは、さっきまでのんびりと流れる時間の中で自然の心地よい感触を満喫していたはずのあのライオン猫だった。鮮血がアスファルトの一画を覆い隠しどす黒く変色しかけていた。あの美しい光沢を振りまいていた毛並みも半分以上は吹き出た血液がべっとりと付着し、ところどころまとまったようにばらばらと毛の束がとんがって見えた。腹部の何処かが破けたのだろう、一部内蔵と思われる褐色の塊が傍らで渦巻いている。
心臓もなにもかにも、ぴくりとも動かない。おそらくは即死。
たった今、ほんの今まであったあの楽園のようなのどかな生はどうした。
一寸先には闇が有るだけか、光り輝くその先は・・・幻影か。
この世はいったいどうなっていて何がしたいのだ。

私は走り出した。
がむしゃらにいつものコースを駆け抜けた。大粒の汗が全身を洗い流す。
戻って来るとライオン猫の屍はおおかた片付けられつつあった。その傍らでは小学校低学年位の女の子がひとり、ただひたすらに泣きじゃくっていた。
たまたまここを、この時間帯を、このライオン猫が通らなければまだまだ長い長い時間をあの女の子と共有出来たはずであったろう。
図らずも死はすぐそこにある。
トトは自らの死期を悟り、そして自らの姿を、存在そのものを事前に消した。幼かった私にとってそれは曖昧な衝撃であり、それによって今でもトトが元気な姿で歩き回る形態を容易に想像する事が出来る。
あの女の子にとってのこの現実的な衝撃は、あまりにも残酷だ。

たちまちのうちに明日が見えなくなった、私は明日を探さなくてはいけない。

コラム一覧

ティーバード ブログ&コラム