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第76話  ハトのきもち

ハトを飼いたと真剣に考えていた小学5年生の頃。
私の家のはす向かいに同級生Fの家があった。もちろん現在でも存在する。そのFの父親
が数えきれない程の伝書鳩を飼育していた。当然ながら、Fもその密度の濃い一群の中に
、1羽だけではあるが自身のハトを所有していた。どうやってその1羽を見分けていたの
かは今でも不思議だ。
当時は伝書鳩ブームの頃で、聞けば回りにも数人ハトを飼っていた友人がいたように記憶
している。大きな大会なども各地で頻繁に開催されていたものだ。
学校が終わると足早に帰宅しハトの世話をするのがFの日課になっていた。
私は部活が終わった後、時折りそのFのハトの様子を見るためにFの家に寄ることがあっ
た。Fはよっぽどハトが好きだったのだろう、とりわけ父親に厳しく世話をするように言
われている訳では無いのに、献身的に夜遅くまで世話をしている姿が見られた。
ハト小屋はFの家の屋根の上に設置してあった。2階家ではあったのだが、総2階といっ
た訳ではなく一部和室部分が平屋となっていた。ハト小屋はその平屋部分の屋根全体を使
った形で造作してあったのである。そうなれば床面積もそれなりにあり、大人の背丈程も
ある扉から立ったまま出入りが出来るといった立派なものであった。またこの高台から眺
めるあたりの景色も美しいものであった。茜色に煌めく夕日を臨む頃には、そばを流れる
大きな川の川面全体がオレンジ色にキラキラと乱反射を重ね、河原になびく草木から遠く
に並ぶ低層の家々までをも均等に照らしていたものだ。今思えばそれは幻想的とも言える
風景であった。
あたりがそんな微光に包まれる頃になると我が家もそろそろ夕食の頃である。ぼちぼちと
帰途に着く。
家に帰っても私の頭の中は例のハトでいっぱいなのである。昔からそうだった。1度何か
を考え出すともう歯止めがきかない。その思考が全てを支配してしまう。寝ても覚めても
ハトの姿が脳裏をちらつく。しかし、すぐには踏み出せない。なぜなら先立つものがない
から。1ヵ月のこずかいなんてものは、ものの3日もあればなくなってしまうのが世の常
である。当時、ハト1羽の値段は、確か、1200円~1800円くらいだったか。すね
っかじりの身の私にはとても手の届く値段ではなかった。じっとチャンスを待つしかなか
った。
季節は初冬、11月も半ばを過ぎたあたりだった。朝方降った雪も午後には消え去り路面
はアスファルトが乾き出していた。部活が先生の用事で早く終わっていた。時間の余った
私はしばらく振りにFのハトをみてみたくなり、奴のハト小屋へと寄ってみた。案の定、
Fはあの大きなハト小屋の中で献身的にハトの世話をしていた。だが、なんだか元気がな
い。

どうしたんだよ、なんだかお前元気がないな。
んーーん、それがな、俺のポーちゃんがまだ帰ってきてないんだよ。
ポーちゃんて誰だよ。おいおい、まさかお前のハト、ポーちゃんって言うのか。初めて名
前しったよ。それにしてもポーちゃんて・・・・・あっそうそう、あいつまだ帰ってない
って、いつから?
もう3日になる。日曜日の大会に出したんだけど、オヤジのやつは全部帰って来てるんだ
けど俺のやつだけまだなんだ。
そうか、それは心配だな。1日や2日くらいは遅れて来る事もあるだろうけど3日は長い
な。何処かで怪我とかしてなければいいけどな。これはじっと待つしかないな。
そうだよな、大きな鳥に襲われてなければいいけど、それだけが心配だよ。仮に襲われて
も逃げ延びてくれればいいけど・・・。

あの時のFはひどくおびえた顔をしていた。可哀想で仕方がなかったが、私にはどうする
事も出来なかった。私が帰った後もハト小屋に残っているFを不憫に思えた。それから2日
後、ポーちゃんは奴の元へと帰って来た。右の羽に大きなキズがあった。やはり何処かで
大きな鳥に襲われたのだろう。その窮地から必死に逃げ延びたのだ。この、わが家に帰る
為に。ハトが帰った日のFは本当に嬉しそうだった。あれだけのキズを羽に受けながら、
何処かに隠れて羽を休め、天気の良いこの時にチャンスを見つけて飛び立ったのだ。Fは
本当に良いハトに恵まれたのだと感心した。私もそんな出合いを求めていた。

私にチャンスが訪れたのは、それから9ヵ月が経った時だった。
それはお盆を向かえた日から2日目、祖母からちょっとした小遣いがもらえたのである
。少し前には既に父親から小遣いをもらってはいたのだけれど、それだけではとてもハト
を買える金額ではなかった。昭和の中期、小さな御祝儀袋の中に500円も入っていたら
飛び跳ねて喜んだ時代である。そんな小さなお金を大事に掻集めては、その金額を作った
のである。
2000円程の金額をポケットに押し込んだ私は、ペットショップへと向かった。そして
数々のハトが押し込められた大きなゲージを覗き込んだ。いるいる、可愛いハトがその中
でひしめき合っている。どれにしようか悩んでいたのだが、ふとある事に気がついた。そ
れはとても大事な事であった。
肝腎のハトを入れておく小屋、そうハト小屋が私にはないのである。それに気付いた私は
すぐに行動にでた。ペットショップを後にした私はまずは小屋を作る為の木材を探す事に
した。近所をふらついていると小さな家電屋の建物の横に冷蔵庫を梱包してあったであろ
う平板で組まれた枠組みを見つけたのである。ここまで形が出来ているものであれば後は

簡単である。早速その家電屋へと乗り込んだのである。
幸いな事にこの家電屋の主人は私の父親との面識がある様子で、快くこの冷蔵庫の枠組み
を私にくれたのである。ありがたい、これさえあれば後はわが家の裏に転がっている板切
れを張り合わせればなんとかなる。
製作に2日程かかった。
木材を打ち付けただけではどうしても中の様子が解りづらいと考えた私は、隙間に針金を
編み込んだネットを張る事にした。これがなかなか張りづらくて手間取ってしまった。最
後に30センチ四方のハトの入り口を作り、そこに太い針金で作った暖簾を掛けて完成に
至った。この暖簾は外からは押し込んで気軽に中に入る事は出来るが一旦中に入ってしま
うともう外には出られない仕組みになっている。ここを終の住処と決めてくれたハトは、
自由に大空を飛び回ったあとに、さあそろそろ家にでも帰ろうかとなった場合、この暖簾
をくぐってわが家へと入るのである。
準備は整った。
大枚2000円を握りしめた私は今度こそと鼻息も荒く例のペットショップへと向かった
のである。

厚紙で作った小さなゲージに1羽のハトを入れてもらい、私はワクワクしながら家路につ
いていた。中でもこいつは一番賢そうに見えた。大勢のハト達は無駄にあちらこちらに動
いてはお互いがぶつかりあうなど、ただ単にせわしない。だけどこいつだけは違っていた
。まるで落着いた様子だ。無駄に動かない。そこが肝心だ。落ち着きがなければただの駄
バトにすぎない。落ち着きがなければ状況判断が不適切になる。
私は直感でこいつが気に入った。

家に着いた私は、その足で仕上がったばかりのハト小屋へと向かった。その真新しい扉を
開けて中へと足を踏み入れた。そして私の選んだハトを、その狭く限られた空間の中へと
とき放した。ハトはその空間の大きさを確かめるようにいちど大きく羽をひろげては直ぐ
に閉じた。全体の狭さを把握したのだろう、そのまま2度と羽を広げることはなかった。
そしてまわりの作りを確認するようにゆっくりと歩き出した。
私は一緒に買ってきた餌と岩塩を紙袋から取り出して、岩塩の固まりの方をその地面へと
置いた。ハトにとっても塩が必要なのはペットショップで初めて知った事だ。生物にとっ
ては塩が大事な物なのだと学んだ時であった。
私は心底嬉しかった。
ハトのいる光景を感じているだけで、時間が過ぎ去るのも忘れてしまう程に心が高揚して
いた。
Fのハトの様に何事にも屈することのない、強靱でいて賢いハトに成長して欲しいと思っ
た。その為には私の献身的な世話がかかせない。手を抜いてはいけない。ハトはその飼い
主の度量を見抜く力を備えているのだ。それによってここが安住の地として価値があるの
か無いのかを感じ取るのだ。
もうすっかりと日が暮れていた。
時間を忘れ、妄想と現実の狭間でハトのいる風景を覗いていた。ハトの姿は闇に塗れてほ
ぼ見えなくなっていた。
餌は次の日からでいい、とペットショップのおじさんが言っていた。明日目覚めたら餌を
やる事にしよう。急激な環境の変化はこのハトにとって多分のストレスになるはずだ。こ
こから少なくとも1週間くらいはあまり刺激を与えないように気をつけなければならない
。餌に関してもやはり与え過ぎはNGだ。そしてそろそろここから退散しよう。今夜はそ
っとしてハトを休ませてやらなくてはならない。
私は抜き足差し足忍び足、あまり音をたてないようにこの場を後にした。
明日が楽しみだ。明日にはFも私のこのハトを見に来てくれるといっていたし、なにより
も朝目覚めて、そこに自分のハトがいるといったシチュエーションがある種の興奮を私に
与えた。今夜は私の方も素直に眠りに着く事は出来ないだろうと思った。

あれこれとこれからの出来事を考えているうちに沸き立つ思いで胸が溢れ眠りに着いたの
はやはり深夜を超えていた。
学校はちょうど夏休みに入っていた。朝のラジオ体操の時間には母に起こされた。6時を
少しまわったあたりだった。すでにカーテン越に朝の光りが輝きを増し、これからの素晴
らしいだろう1日を予感させてくれた。いつもならぐずぐずと寝返りをうちながら再び目
をつぶるのだが今朝は違っていた。私はすくりと起き上がりジャージに着替えた。やる事
がある、それが楽しいことならなおさら素敵な1日だ。
私は机の上に置いてあったハトの餌を手にした。そのまま何処にも、トイレにも寄らずに
家の裏へと向かった。ハトは、私のハトは昨夜ぐっすりと眠れたのだろうか。そんな思い
を胸に、裏庭にひっそりと置かれたハト小屋の中を覗き込んだ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・。

私は、1度空を見上げて深呼吸をひとつ、再びハト小屋を覗き込んだ。

どこだ・・・・ハトは?
ハトがいない。
もしかして・・・・・・・・逃げた?

私には何が起こったのかすぐには理解する事が出来なかった。ハト小屋は昨日の位置に置
かれたままだ。出入り口のドアもしっかりと閉ったままだ。いったい何が起こったと言う
のだ。疑問だらけで私の頭の中はすっかりと混乱してしまっていた。この時空の歪みの中
に迷い込んだように行き先の見えなくなった私は、一旦部屋に戻った。今思えば不可解な
行動だが、この時の私は部屋に戻る事でリセット出来る気がしていたのかもしれない。も
う一度布団に潜り込んだものの、この無慈悲な現実が変わる事はなかった。

この後、ハト小屋の点検をしてみると直ぐにその理由が解った。
なんのことはない、ハトの入り口に設置した暖簾状の金具を逆につけてしまっていた。ハ
トは、さりげなく、それとなく、何気なく歩いていて、自然に外界へと歩み出ていったの
かもしれない。
私の全身の力は抜けていた。やる気も今はない。
結局一晩だけのアバンチュール。
なぜか、私はこの小さなつまずきひとつで、もうハトはいらなかった。
あんなに恋いこがれていたのに・・・・・・。
あっさりと覚め切った気持の訳は、はっきりとは解らない。
ただ、大きな鳥に襲われていなければいいな・・・と思った事だけは確かだ。

頭の上には雲ひとつない大きな青空が虚しく広がっていた。
そろそろラジオ体操が始まる。

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