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第75話  なぞ男

全身汗にまみれていた。
思えばこの異常気象である。太陽が姿を表したばかりの市街地ですら既に28℃を超えて
いた。それから1時間が経過し、山を登っている今ではゆうに30℃を越えているのかも
しれない。気管を通る酸素の感覚が掴めない。
山道は両脇に巨木が立ち並び、あたり一面には背丈が50cmにも伸びた雑草が生い茂っ
ていた。そのせいもあるのだろう、一向に風がふき渡らない。額から大粒の汗がいくつも
飛び出しては頬を伝い落ちる。それが首に巻いたタオルへ次から次へと染み込んでいく。
タオルはぐっと重量を増していく。
鬱蒼と草木が生い茂る薄暗い坂道を抜けると、突然と空が開けた。
青々とした芝生が太陽の光を目一杯吸収しては輝いている、ちょっとした公園の様な広場
だ。ここで一息ついて直ぐにも頂上を目指した。なぜなら、ここから300メートルも歩
けばそこが到達点なのである。だらだらと休んでいる分けにはいかない。
前方に最後の難関である急勾配の階段が見えて来た。この階段を100メートルも登れば
頂上だ。額からしたたり落ちる汗はそのままに一段一段踏み締めるように歩を進める。疲
れ切った体にはこの階段と言う規則正しい足踏み運動が、
なかなかこたえる。
「ふ〜〜やっと着いた!」
最後の一段をとうとう登り切った私は、ひとつ大きく息をはいた。

ここは既に頂上の一端である。この先は5メートル程の軽い登りが続き、そこにはほんの
小さな「ほこら」が、大きな岩の影にちょこんと存在する。この山を守る神を祭ってある
のだろう。その脇を通り過ぎると周囲20メートル程のこじんまりとした平地が姿を表す
。この極めて質素で狭くてなんにも無い所が頂上なのである。ただ、何にも無い分、視界
は開ける。見渡す限り360°を堪能できる。太平洋から八甲田山までの大パノラマを一
望出来るのだ。

太ももには特にきびしい階段を登りきり、ホッと一息ついた私は「ほこら」のある大きな
岩の側へと歩を進めた。すぐにも古ぼけた「ほこら」が見えて来るはずだ。私は習慣とし
てそこで手を合わせる事にしている。何か良い事があればいいな、などと打算的な事を思
っている訳では無く、ただなんとなくである。
「ほこら」がそろそろ・・・・・えっ!
ここで私は思わず身を引いてしまった。その「ほこら」の前にひとりの中年男が座ってい
たのである。その男はシルバーフレームに黒レンズのティアドロップ型サングラスをかけ
、頭には黒色のバンダナをまいていた。まるで70年代、巷にはびこっていた夢見るミュ
ージシャンを連想させた。服装と言えば色あせた黒色のTシャツにカーキ色の単パン、足
元にはしっかりとしたトレッキングシューズを履いていた。ここまでならまぁやんちゃな
おっさん、ちょっと変わった山登りの人、と言ったところなのだろが、この男は少し違っ
ていた。
あぐらをかいた自身の股間の前に、口をさかさまにした賽銭箱を抱えていたのである。し
かもその賽銭箱を一生懸命上下に振っている最中だった。当然のようにその賽銭箱の中か
らは振るたびに色とりどりの小銭が地面へと投げ出されている。一心不乱にそれを振り続
けていた男は、何かに導かれるようにふっと私の存在に気が付いた。
男は慌てるでもなく、私と目を合わせ、そして口を開いた。
「いや〜最近賽銭泥棒がおおくてね〜こまってるんだよ〜ほんと」
正解の見えないその言葉に、私は戸惑いを押し隠す事は出来なかった。
「はぁ・・・・・・・・・・・・・そうなんすか?」
賽銭泥棒がおおくて困る、と唐突に言われても、私自身には今賽銭箱を振っているあなた
自身がそれらしいと言えばそれらしく見えるのだけれど・・・・私は完全に疑いの心持ち
なのだが、まるでそんな事には関心が無い風を装おった。この短時間ではなにもかにも判
断しかねる。とにかくじっくりと観察してみなくてはいけない。少しばかりの沈黙の後そ
の男は再び陽気に語りだした。
「いやいや、本当に賽銭泥棒には手をやいてるんだよ。まいるよね。ところで賽銭泥棒だ
けど、そいつはいつが、そうだな、何曜日が一番おおいと思う?」
不躾な質問だ。
「はっ、そんな事私に聞かれても全く解らないけど、日曜日とかじゃないんですか。登山
の人も多そうだし・・・」
「う〜〜〜〜ん、おしいな〜、実は月曜日なんだよ。今日、そう今日も月曜日。さっき君
が言ったように日曜日は登山客が多くてね、その登山客の多くがが賽銭を投げ入れるんだ
よ。その登山客達は夕暮れ近くまでこの辺にうろうろといるわけだから、さすがに泥棒も
暗闇は避けるだろ。だから次の日の朝、月曜日の早朝にあらわれるって寸法さ。わかる?

わかるって、おいおい、それって今日の、今ここにいる私が怪しいって事か。なんだか話
がややっこしくなって来たぞ。心に得体のしれないモヤモヤと冷や汗を感じ始めた私はそ
の男に向かって尋ねた。
「それほそうとあんたはいったい誰なの?」
「俺?あっそうそう言い忘れてた。俺はこの山を管理している、すぐふもとにある寺の住
職だよ。それでここへこうやってわざわざ山を登って賽銭を集めに来てるって訳、わかっ
てくれた。あれっもしかして君って俺の事を疑ってるの?」
疑うも何も、サングラスのおっさんがひとり、誰もいない薄ぐらい場所で賽銭箱を振って
たら普通変に思うだろう、ましてや一見するかぎり、とても住職としての威厳も後光も有
り難さも見出す事は出来てはいない。
しかし、ちょっと待てよ。しばし私は考えた。
私にとってこの男が賽銭箱から小銭を集めるせこい泥棒であろうが、大きな寺の裕福な住
職であろうがどうでも良い話ではないか。そんな世紀末的結論に至った私はこの場をこの
まま受け流す事に決めた。この先、話がややこしくなってもいけない。
「いやいや、そんな事はないっすよ。住職ってのもなかなか大変なものなんですね。こん
なところまで集金に来なくてはならないなんて。暑いけどせいぜい頑張って下さい。それ
じゃあ、私は先を急ぎますんで、!」
そう言って私はその住職と名乗る男のわきを通り過ぎ、頂上の平地へと向った。
「あっそう、は〜い」
男は笑みを浮かべながらそう答えると、再びじゃらじゃらと賽銭箱を降り始めた。
ただ、どうみてもぎこちないやり方だ、何かもっと簡単にお金を取り出す方法がありそう
なものだが、と思った。そしてやはり奴には気をつけなければいけない、とも思った。

頂上からの眺めは最高のものだった。真っ青な空にところどころシュークリームのような
真っ白い雲がのんびりと漂い、穏やかな夏風は、遠くにかすむ峰々の稜線から眼下に広が
る区々の輪郭を吹き抜け、地平線がくっきりと横たわる白い海へと流れて行く。この一連
の風の流れは頂上に立つ私の全身をも壮快で透明なものへ変えて行く。このまま時が止ま
れば・・それもいい・・と、素直に感じてしまう。

「いいよね〜ここは」

突然、私の耳元で声がした。
思いもよらない不意な出来事に私の心臓はドキリと高鳴った。久し振りのビックリ仰天と
いえるショック状態だ。
「今日は天気もいいし、ほんといいね〜」
奴だった。
いつの間にか私のすぐ後ろにあの男は立っていた。私はしっかりと気をつけていたつもり
でいたのだが、あまりの景色の美しさについ気をゆるしてしまっていた。落ち着け、落着
かなくてはいけない。
「・・・・そうすね・・・・」
私はまるで何事も無かったかの様に、冷静にかつ端的に言葉を返した。おそらく私のこの
ちょっとした動揺は奴に悟られてはいないはずだ。また、この男に絶対に背中を見せては
いけない、と心が言った。そのとおりだ。私はさりげなく、そしてしっかりとその男と向
かい合った。この疑惑渦まく広大な密室的空間では、何が起こってもおかしくは無いのだ
から。
「うん、いいところですね、さてと、私はそろそろ仕事の時間だし、お先します」
そっけなくそう告げた私は、気持身構えながらその男のわきを通り過ぎ、山を下る為に山
道方向へと歩を進めた。音も無く私の直ぐ側まで近付いて来ていたこの状況には慣れる事
のない違和感がつきまとう。もし何かがあれば私とてそれに対応しなくてはいけなくなる
。心と体の準備だけは整えておかなくてはいけない。そしてこんな釈然としない曖昧な雰
囲気の中に長居は無用だ。
「あっもうお帰りですか、早いですね。」
男はサングラスを右手で軽く押さえながらにやりと笑った。とても無気味な笑いに見えた
。決して奴に背中を見せてはいけないと再び思った。
しかし、しかしである。もし彼が言う様に、本当に寺の住職であったとしたらどうだろう
、逆にとても爽やかな笑顔に見えただろうか。いや・・それはない。心のもちようひとつ
で随分と違ってくるだろうが、あの胡散臭いサングラス姿では容易に信用など出来はしな
い。
「ええ、このまま仕事場へ向うとちょうどいい時間なんですよ。そして、もう、多分月曜
日には来ないと思いますよ。それじゃあ!」
「はっはっはっはっ気をつけて!」
今度は、奴は声を出して笑った。
やっぱり本物の住職なのか?増々解らなくなって来た。一度頭を冷やし、奴の一連の行動
内容を考え直してみなくてはいけない。そこに答えがあるのかどうかは解らないが、今よ
りはましだろう。

私は常に背後には気を配りながら慎重に山道を下った。
途中、手に馴染みそうな太さとちょうどいい長さの木の枝が落ちていた。
私はちらりと背後を確認しながら、それを手に取った。

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