Column

第53話  分身の術

人間とは不思議なものだ。
何らかの危険が我が身に差し迫まっていたり、不幸という名の醜悪な悪魔がじんわりと忍
び寄りつつある時、生きて行くうえで無くてはならない五感という標準装備機能以外に体
内に備わった特別な何か、それは無意識ながら鋭敏な防衛反応だったり、多少の歪みはあ
るにせよ的確な予知能力だったり、それらが突発的に作用して胸騒ぎ的にどこか敏感な部
分を刺激し自身に何かを伝え知らせる。もしくは自然にそれらの危機を回避するように仕
向けてくれる。そんな不思議な能力は、形は違えど全ての人々に備わっているものなのか
もしれない。その備わっているだろう特殊能力を自在に使いこなせる程に自覚している人
間は果してどれくらいいるのだろう?ほとんどの人間はそれらを使いこなすどころか、備
わっている事すら解っていないのが本当のところかもしれない。

私自身は、その特殊能力が備わっている事を自覚出来ている数少ない人間のひとりだ。

初めてそれに気が付いたのは数年前の正月は1月2日、初売りの日だった。
毎年の事なのだが、初売りから3日間は通常の開店時間より30分だけ時間を繰り上げ、
午前11時には店を開ける。特に初日は福袋を求めてのお客様が多い為、早めた開店時間
よりもさらに早くから玄関先に並んでくれている。
そのたのもしい光景を横目に20分程の時間を掛けて店内の掃除を済ませ、年明けの挨拶
の後スタッフ全員でお神酒を頂く事が慣習になっている。
このこじんまりとした内輪だけの新年儀式を済ませ、いざ初仕事が始まるのだ。
開店と同時にお客様が店内へとなだれ込む。毎年この日に来店してくれる親しい顔がちら
りほらりとうかがえるし、そのほかに新たなお客様もおおいようだ。
この寒波の中、ありがたいものだと心底思う。
早い時間はやはり福袋がメインで売れてくれる。苦心のすえに作り込んだ限定の福袋は案
外人気がある。この福袋製作のために数カ月間を費やし、あちらこちらから商品をかき集
めた苦労が報われるひとときだ。
開店から一時間も経過すると福袋の販売自体は徐々に落着きをみせ、通常の流れに戻る。
そうはいっても正月、来店してくれるお客様の数は通常の土日祭日などよりははるかに多
い。その人々の大きなうねりの中で傍らにある福袋を時々勧めながらも、メインである洋
服の販売に力を入れなくてはならない。盆と正月は帰省のお客様がわざわざ店に寄ってく
れて、こちらで新しい洋服を揃えてくれるパターンもなかなか多い。
そんななか、数年前から中京地区で就職しているA君が顔を出してくれた。
彼は高校生の頃からの常連で、かれこれ15年来の付き合いになる。故郷から遠く離れた
場所で精一杯働いては、季節の節目節目の連休を利用して帰省してくるのだが、その都度
必ず店に立ち寄ってくれるのだ。
今回はパンツを探していた。以前はややオーバーサイズなものを履いていたイメージがあ
ったのだが、最近ではタイトフィットでスタイリッシュな物を好む。そこで、ストレッチ
素材を使用したスキニ−系のパンツを紹介し、試着してみてもらっていた。
初売りの数日間は通常よりもスタッフを2名程増やす。洋服はどうしても接客が必要不可
欠、しっかりと好みの洋服を提案してあげたり、またお客様が選んだ商品を試着してもら
い、その商品に関しての蘊蓄を語らなければならない。つまりそのお客様と一対一で向き
合いコミュニケーションをとりながら販売をしていく訳である。必然的にこの時期2名程
度の増員では、まだまだスタッフ不足ではあるが、いかんせん、接客できる臨時スタッフ
というのはそうそういるものではない。だからなんとかこの人数でまわすしかないのだ。

「はいてみましたよー!」
フィッティングルームのカーテンの隙間からA君の低音が響いた。
サイズはどうやら私の選んだもので良かったようだ。
腰からヒップにかけてのフィット感といい、腿から裾にかけての流れるようにきれいなシ
ルエットといい、申し分のないスタイリングである。その自身の姿をみとめたA君は柔ら
かい笑顔を私に向けた。
「これください!」
よかった、たった一発で気に入ったものを提案する事が出来た。
「それじゃあ、裾の位置をセットしてすぐに裾上げしましょうね」
「はい、お願いします!」
気持ち良くスムースに事が運ぶ、これにこしたことはない。
他のスタッフもそれぞれに、この心地よい流れの中で接客に勤しんでいる。
着替えの済んだA君がフィッティングルームのカーテンをさらりと開け、その気に入って
もらったパンツを小脇に抱えている。私はそれを受け取り、手の空いていたOに裾上げを
依頼した。次にそのパンツに合わせる為のトップスをA君と一緒に探すことになった。私
は2、3のブルゾンをピックし、その中の一着に袖を通してもらいカガミの前でチェック
してもらっていた。すると、そのカガミの中に、位置で言えば丁度私の後方10メートル
あたりだろう、レザージャケットを試着しているお客様がちらりと見えていた。スタッフ
が付いている様子は見受けられない。Oは裾上げのためにソーイングルームに入って行っ
たし、その他のスタッフもそれぞれが誰かに付いている。誰ひとり空いている者はいなか
った。
そのお客様に一声掛けたいのはやまやまなのだが、私は今A君に付いている身である。す
ぐそばならまだしも軽やかなスキップで向かったって10歩以上は離れている距離感だ。
こちらをほっといて、さらりともそちらに向かう事はA君に対して失礼にあたるし、もっ
てのほかだ。
だが・・・今そのお客様が勝手に試着しているのは、アメリカのレザーメーカーに別注を
かけたライダースジャケットで数十万円はするものだ。まっ先に値段の事を考えるのは料
簡の狭さなのかもしれないが、巷に吹き荒れるこの不景気の大嵐の中、そんな高額な物を
誰にも進められずに試着している姿には心引かれるものがある。しかも、見た所サイズと
いい、カラーといい、ぴったりと似合っている。誰かの一声があれば「じゃあ、これくだ
さい!」と二つ返事で決まりそうな雰囲気がありありと漂っているではないか。
誰かスタッフは空いていないのか、もしくは空けてくれ・・・・・・!
一心にそう願った・・・・・・・・・そんな時だった。

「よし、俺が行く!」
そんな声が私の体の皮膚一枚内側から聞こえてきた。
「こんな大物は滅多に無いだろ、絶対に今だ、そう今いかなければだめだ。お客様が着て
いる今、今声をかけるのがベストだろ」
体の中で何らかの変異が起こりつつあるのは確かだ。沸き立つ血流が高速で全身を駆け巡
りある一点へと集中的に終結しつつあり、その柔らかいデリケートな部分は大きく姿を変
化させようとしている。
得体のしれない未知の停留体が、私の体の内側から目新しい外の世界へと手足を伸ばして
飛び出そうとしている。飛び出してはそのレザーを試着している人のところまで行こうと
いうのか。
「それはやばいでしょ!」
かつて経験のない急激な体の変調ぶりに計り知れない戦慄を覚えた。
そう、体表部に変化が表れ出した事を私はハッキリと自覚出来ていた。そして思考すら司
るかもしれない、もうひとりの分身のようなものに、あわてて強く言い聞かせた。
「止めろ!お前が出て来てもどうしようもない事なのだ。お前には何もする事は出来やし
ない。だからおとなしくしているのだ。私を助けようなどと大それた事を考えてはいけな
い。助ける事が出来るなどと思い上がってはいけない。邪魔、そう邪魔以外の何者でもな
い。頼むからおとなしくしていてくれ。お願いだ!」
顔では笑みをたたえながらも、心では涙ながらに懇願し続けた。
「何を言ってるんだ。だって今お前は強くそう思ったじゃないか。だから俺はお前のその
強い思いを実践してやろうとこうやって血流をコントロールしてまでも頑張ってるんじゃ
ないか、そんな簡単な事も理解出来ないのかお前ってやつは!」
「いやいや、血流とか理解とかそう言う問題じゃない、もういい!もういいから戻れ!体
の中に戻ってくれー!」
「そうかい、そこまで言うなら解った。お前はあのお客様を失う事になるけど、それでも
いいんだな。」
「ああ、解ってる。それでもいいと思っている。」
「じゃあ戻るよ、つれない野郎だ!どうなったって知らねーぞ。この中途半端な姿は残す
事になるが・・・・・じゃあな!」
直後、忽然とその強大な意識は消え去った。
良かった、私は正直ホッとした。
私の体はひとつだけでいいのだ。私はA君をしっかりと接客するべきなのだ。レザージャ
ケットはそのお客様が本当に欲しければ、ひとりで買う買わないをきっちりと判断するだ
ろう。
―無理をしてはいけない―
そう吹っ切れた時に心の落着きを覚えた私は平常心を取り戻すことが出来た、と同時に血
流も穏やかな流れへと変わっていった。
しかし、先程まで燃え滾っていた負の意識の遺産はコリコリとした丸っこい形でしっかり
とそこに残っているのが解った。

まるで肛門にでかいビー玉をはさんでいるかのような超違和感。
それによって下半身全体がわなわなと震えている。ご苦労様な括約筋がキュッキュッと伸
縮をくり返すたび「痛て!」と、体が右ななめ10°に傾く程に激痛がこめかみにまで直
走る。前後左右移動時にはどうしても内またになってしまう。落っことしてはいけない大
事な宝物を肛門で摘んでいるかの様な不自然極まりない緊急事態を、まわりには一切悟ら
れる事なく、私はしっかりとA君の接客に勤しんだ。
例のレザーのお客様は、その後直ぐにレザーをハンガーへと戻し、本当はレザーなんかに
興味はなかったかのようにあっさりと靴のコーナーへと向かっていった。どうやら私の思
い過ごしに過ぎなかったようだ。
A君はと言えば、しっかりとセットアップで買ってくれていた。これでよかったのだ。体
がふたつに分離しない事を私は6才の頃から重々承知している。「特殊能力が備わってい
る事を自覚している」なんて思わせぶりな事を言ってしまったが、早い話、その一時のフ
ラストレーションで突然イボッチが出現したというだけの他愛無い出来事であった。
アイムソーリー!
ただ、気持ちひとつで体に急激な変化が表れる事に正直驚いたのは事実だった。

その夜、私は分身の残骸に熱いシャワーをあてていた。
血行を良くする為に持てる力の全てを注がなくてはならなかった。カガミに写るその姿は
、我ながら情けないものであったが、とても人間らしい姿にも見えた。
毎夜の努力が実り、それが姿を消してくれたのは・・・三日目の朝だった。

いやーまいったまいった!

※2008年度中、皆様には大変お世話になり、有意義に過す事が出来ましたことを心か
ら感謝致しております。本当にありがとうございました。
年内は12/31(水)PM5:00までの営業となります。
新年は1/2(金)AM11:00からのオープンとなります。
恒例の福袋はグッドな商品がたくさん入っていますのでどうぞ御期待下さいませ!
来年もスタッフ一同精一杯頑張るつもりでおります。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
2009年、皆様に幸せが訪れる事を心から願っております。

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