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第50話  悪夢な夜と女の強さ

夜がすべての色を虚無へと導いた・・・。

地面からの無気味な唸りとともに店内はおおきく横に揺れた。
私のとなりで横山ケンを熱唱していたTは、マイクを右手ににぎりしめたまま、左手はカ
ウンターの縁にしっかりとつかまりその体を支えた。この非常時でも、マイクは口元に向
けられたままであった。

久々の集合であった。
それぞれが仕事を持ち、職種の違いや拘束時間の違いなどなど様々であるから一緒に何処
かへ出掛けるなんてことはここ数年なかった。最近では私自身も仕事が終わると疲労困憊
気味で、真直ぐ家に帰ってしまう生活が続いていた。学生時代は眠る時間をさいてまでも
活動していた事を懐かしく思う。そんな輪郭の薄い生活をくり返していた頃、同じ洋服屋
を営むIがふらりと店を訪ねてくれた事があった。「ここ最近どう?」的な他愛無い会話
のなか「たまには飲みにでも行こうか!」と最後には意気が合い、早々にその日を決めた
のだった。

Y寿司はやはり混み合っていた。
予約してあったおかげで、すんなりとカウンターへと通された。
カウンターのなかでは板前姿のTがいつもながらに威勢良く店を盛り上げている。にぎり
の注文も途切れないようすで、こまめに立ち働いていた。
追ってI夫婦が姿を表した。彼等は本当になかがいい。何処に行くのも一緒、何をするの
も一緒、洋服まで一緒である。まさしく愛と平和の象徴的存在だ。
そのIの嫁はUといい、おっとりとした温厚な性格で特に気を使わずに済む。以前は高校
の教師をしていた時代もあり、偶然なのだが、私の娘の在学中と重なっている。その接点
に関しては曖昧だが、娘が良い方向に育ってくれた事自体は誇りに思う。

ひととおりのコース料理を堪能し酒も進んで来た。こうなればやはり次の店である。Y寿
司も終業時間が近付いている事もあり、合流予定のTはスタッフより一足先に仕事を切り
上げ、私達と一緒に馴染みの小さなスナックへと向かったのである。
そこはS通りと銘打った古くからの飲み屋街で、長い歴史を感じさせる建物が狭い路地を
はさんで隣接し、旧き良き時代の温かさが体全体をやんわりと包み込んでくれる雰囲気を
たたえると同時に、また憂いをも兼ね備えた場所であった。その一角、二階建ての連鎖し
た年代物の建物の二階部分のはしっこ、そこに目指すスナック「S・L」はあった。
(イニシャルであってSLマニアの店ではない)
飾らない気さくなママがいつもの笑顔で迎え入れてくれた。
どうやら、先客はいないようだ。
カウンター左からT、私、UそしてIがバースツールに腰掛け、それぞれが飲み物を注文
した。私とTはすでにカラオケ本を手にしていた。なぜなら、ここへ向かう道すがら今夜
の歌は懐かしい昭和中期30年代から40年代の曲中心で行こうという話になり、それぞ
れが心に思う第一曲目が決まっていたから・・・その曲を全力で探し始めていたのだ、最
初に歌いたいが為に。
一時間程経過して、店の後片付けを終えたTの嫁Rも合流し、滅多に会わない5人の飲み
会が本格的に幕をあけたのである。
私とTは次から次へとピックした歌を交互に歌い続けた。IとUそしてRは熱唱を続けて
いる私達にはいっさい構う事もなく、ママを交えてゆったりと歓談している。どうやら話
もはずんで酒の方も早いピッチで進んでいる感じだ。
久し振りにこの陽気な時間を共有し、そして皆楽しんでいた。
Tはこのあたりで、選曲を最近お気に入りの横山ケンに切り替えた。

そう、ちょうどそんな時だった。
地面の底、まず足元から、得体のしれない唸りと共に不穏な振動が伝わって来た。まるで
大きななにかがこの建物の真下で蠢いているような。
「なんだ?」と思った次の瞬間、激しく左右に揺さぶられた。
(地震だ!)
もっともっと激しく激しく揺れて・・・続いた。
いつもならこの大きな揺れから徐々に弱まっていくのだが、この時は違った。そこから有
り余った力を増幅させるように、さらに強い揺さぶりが襲う。カウンターの中にいたママ
の背中側にある飾り棚から、ありとあらゆるものが崩れ落ち、四角いはずのこのスナック
全体の空間が八角形に歪んだ。

(このままではここは崩れ落ちるかもしれない)とっさにそうよぎった。

東側の壁に設置してあるニ台のモニターのうちの一台が滑り落ちた。残ったもう一台のモ
ニターとそれらの関連機材であるアンプや通信カラオケ機材も滑り落ちる寸前であった、
が、そばにいたIはすかさずそれらの全てを一気に押さえた。そしてこの激しいゆれの中
堪え続けた。
はたしてその俊敏さは毎朝の地味なジョギングの成果か?
西側の壁に設置してあるガラスのはめ込まれた飾り棚からは、ママのコレクションである
キャラクタードールが今にも全面に吹き出しそうな勢いだ。スクッと正義のヒーローのよ
うに立ち上がったTはそのガラス戸を左手一本でささえ、この激しいゆれのなかしっかり
と押さえ続けていた、が、右手は未だマイクを握りしめたままで口元に向けられ、小指だ
けが微妙な角度で立っていた。
UとRは落着いた様子で、カウンターに両手を載せたまま揺れに身をまかせて堪えている
。そんな中、ママもカウンターに両手を付いてはいたのだが、口元にやや笑みを浮かべ、
店の天井部分を眺めている。
おいおい、ママは大丈夫か?
そう思った次の瞬間、今度はIが押さえている機材棚の後方にあるトイレのドアが、ガタ
ンと大きな衝撃音を発し開いた。その方向に目をやると、トイレの内部に設置してある白
い陶磁器製の水タンクがガクリと30°程傾き、同時にフタの部分が「ギギッ」と軋みな
がら下方にずれ出し、その影響でスチール管が外れたとみえ、そこから水がピューと勢い
良く吹き出した。
正にこの小さなスナックは修羅場と化したのである。
私はと言えば、この飲みかけのビールの入った小さなグラスを、零すともったいないので
両手でしっかりと守る事に集中していた。(それだけかい!)

長い時間だった。
よくこの老朽化した建物は崩れなかったものだ。容赦のない横揺れとその持続時間の長さ
で、にわかには信じられない程強力に揺すぶられていた。
以前に経験のある、あの「はるか沖地震」をもしのぐ揺れ様だった。
その時の再現ともいえる、悲惨極まりないこの現場を目の当りにして、我が店また我が家
の悲惨な状況を想像せざるおえなかった。
(大変な事になってしまった・・・・・)
ショップのショーウインドーのガラスは粉々に砕け散り、洋服棚は横倒しになったまま洋
服は床に散乱し、電話器や音楽機器、ましてや冷蔵庫などもそのままではすまないだろう
。一方、我が家の買ったばかりのテレビは倒れてはいないだろうか?老犬のダイはパニッ
クに陥ってはいないか?飲食店は再び黒煙が充満してはいないだろうか?それより皆は無
事なのか?
恐らくここにいる皆も各所を押さえながらそう考えを巡らした事だろう。そしてこの有様
を肌で体感し、ある程度の「諦め」を胸に納めなければならない事は充分に理解していた
はずだ。

静かになっても少しの間は皆その場から動かずにいたのだが、もう大丈夫と感じとった後
はカウンターへとざわざわと集まった。皆に安堵の表情が浮んだ。
カウンターのなかで、未だ両手をカウンターの天板につっぱりながら立っているママにI
が声を掛けた。
「ママ、そこ危ないからこっちに来た方がいいよ」
ママはどうやら酔いが回っている様子で、その笑顔のままで答えた。
「エヘヘ~足が埋まって動けな~い!」
この惨事を目の前にしても何の動揺もみられない!
どれどれとカウンター内部の床を覗いた。ママの足は、散乱したグラスからボトル、棚に
ディスプレイしてあった数々の装飾品などで、ひざのあたりまで埋まっていた。とてもひ
とりで抜け出せる状態ではない。Iが手をとり支えるかたちでゆっくりと時間をかけてカ
ウンターの上まで引き上げた。

店内はすっかりと様変わりし、とても営業できる環境ではなくなっていた。
吹き出ているトイレの水を止める為元栓を閉めた。皆があちこちを押さえてくれたおかげ
で大切なコレクションから家電等、ある程度は損害を免れる事が出来ていた。しかしカウ
ンター内部に転がっている全てのものはすでに使い物にはならないだろう。お客がキープ
をしてあるボトルから新品のボトルまで一本残らず無残な姿に変貌していた。グラスも同
様、かなりの損害額だろう。
火元や水回りの各箇所をひととおり確認した後、ママが言い放った。
「さぁみんな、帰ろう!」
意表を付くあっさりとした言葉だ。
「こりゃもう無理だベ、後は明日、明日やるがら解散するベ!お金は今度、次に集金する
がら!それじゃ!」
そのおおらかな一言を期に、それぞれがこれからやらなければならない大変な作業が待ち
受けているだろう場所へと向かう為、重い足を引きずりながらドアを開けた。
カラオケで盛り上がっていたあの空間はまるで夢のようなものであった。
階段を下りて通りに出ると、そこには大勢の酔い客が我が家へと急ぐ姿が見て取れた。こ
の歴史的建造物は、その壁が数カ所崩れたとみえ、足元にはブロック状のコンクリート片
が無残にもところどころに散乱していた。これを目にした時、この建物が崩れ落ちなかっ
た事に心から感謝した。
ほろ酔いのなか、重い心を胸にそれぞれの向かうべき方向へと散った。

私はティーバードへと向かった。
玄関の壁では異常を知らせる警備会社の設置したフラッシュライトが赤い点滅を慌ただし
くくり返していた。
物々しい警戒発光が続くわりには、玄関ドアそしてショーウインドーのガラスはどうやら
無事であった。少しだけ、ホッとした。
いやいや、まだだ。店内を確認しない事には安心は出来ない。あれだけ揺れたのだから、
たまたまガラスが壊れていないだけで、店内にある年代物のランプや什器など大事なもの
は間違いなく散乱しているはずだ。
ドアのカギを開け、恐る恐る店内へと進み、そしてライトをオンにした。
「ん~!」
地震の前となんの変わりもない様子。いや、強いて言えば、本が数冊床に滑り落ちている
だけだ。洋服を着せている一本足のボディーすら一台も倒れてはいない。
「なんで?」
そのままレディース店、家具店へと歩を進めた。レディース店は以前のまま整然としてい
て何の被害も見られない、家具店はグラスが数個床に転がってはいたが、幸い割れてはい
なかった。
いったいどうなっているのだ。
あの揺れ方は「はるか沖地震」をもしのぐ凄まじい揺れだったではないか。
頭の中が交錯していた。
次にその足で料理店へと向かった。
料理店では以前の教訓を生かした地震対策が功を奏し、ここも大きな被害もなく済んでい
た。やっとでつながった電話で家の方も無事だと言う。
ここで心からホッと一息つけた。
街は停電もなく車もスムーズに流れている。後日ニュースで知った震度6だったが、やは
り以前におきた「はるか沖地震」の教訓を生かし、ある程度の対策は街全体でしていたの
かもしれない。街にはあの時程の悲愴感は漂ってはいなかった・・・。
もしかしたら・・・私達のいた・・・あの小さなスナックの・・・あの空間だけが・・・
異常に揺れていたのかもしれない・・・。

翌日、すっかりと晴れ上がり夏の太陽が強い日射しを放つなか、Tシャツに汗を滲ませ、
スナック「S・L」へと向かった。途中、差し入れをと思いコンビニへ寄ると、思い掛け
なくRと遭遇、縁を大事に一緒に見舞う事にした。

そこにはいつもと同じ気さくな笑顔があった。
「いやいやあっついね~きょうは~ほら、この辺全部だめだった。しょうがね~よな。う
ちのかーちゃんも来てくれで、もうすぐ終わるがら。」
奥の方にママのお母さんがちらりと見えた。
「この地震がながったら、きのうはすんごぐ楽しがったのにね~コーラありがっとね~、
まだ来てね、まだ一緒に飲みましょ。でも、この暑さでなんだかダイエットできそうだな
。へっへっへっ!」
首には真っ白いタオルを巻き付け、額には大粒の汗を滲ませながら笑っていた。
ぶれのない力強い笑顔だ。
ちょっとやそっとじゃ屈しない、女の気丈さが私の心を爽快にした。

そこにはすでに色を取り戻した日常が溢れていた。

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