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第36話  独立第一号(40才になるK一号に捧ぐ)

私が最初の店を出したのは1987年である。この年にN県から初めて八戸の地を踏んだ
男がK一号であった。当時K一号(以下K)は八戸工業大学建築学部への合格を手に、意気
揚々と八戸に乗り込んで来たのだ。
(余談ではあるが確かKの卒業したK高校では唯一の大学進学生であったと聞いた。)
ところが、24万人都市と聞いていたKは八戸の駅に降り立って驚いた。
2005年の新幹線駅舎が完成する随分前で、当時はとても小さな木造駅舎であり待合室
は50人も入れば一杯になる程であった。その貧粗な駅舎の狭さに驚き、そこから外に出
てみてまた驚いた。思い描いていた街並みが無いのである。
八戸は変わった形状をしており、駅と商店街は5キロ以上も離れているのだ。だからそれ
を知らずに駅前を覗くと(ここはどこ?)と思うのである。
この時点でKは「直ぐに地元に帰ろうと思った。」と後々語っていた事を記憶している。

私はと言えば雑貨屋を新装開店したばかりで、お客様がいつ来るか、いつ来るかと待つば
かりの日々であり、極めて退屈な時間を過していたのである。そんなのどかな午後のひと
ときに、お客様としてひょっこりとKが表れたのだ。
これが初めての出会いであった。
この時Kとは一時間程話し込んだだろうか?6坪程の狭い店内で一時間も居たお客様は全
く初めてであった。バイクの話を共通点に結構たくさんの事を話したものである。

それからのKは度々店に顔を出す様になり、親しくなると同時に、私の店も少しはお客様
も入ってくれるようになり出したのだ。
それを期にKはアルバイトの形で私の相棒になったのである。
駆け出しの店なのでまだまだ方向性はしっかりと定まらず、その都度二人で話し合いなが
ら新しくメーカーを増やしていったのだ。この頃に付き合って頂いたメーカーとは今でも
親しくして頂いており、それらのメーカーの成長振りは著しく、今では大メーカーにまで
伸し上がっている所も少なくはないのである。

月日は流れ、紆余曲折ありながらも一緒に歩み続けた6年後、
満を持したKは独立を決意したのである。
その地はN県M市と言う歴史と伝統を誇り、閑静と雑踏が上手い具合に折合いを着けた質
素でいておしゃれな街である。ここを新たな出発の場所に選んだのだ。
人使いの荒さでは天下一品のKは、早速当時の部下を二人連れ2台の車でこの八戸を後に
したのだ。Kは所有していた「スカイブルーのVWカルマンギア」にひとり、マドから肘
を覗かせ片手ハンドルで優々とN県へ向け走行していた。
もう一台はその部下であるK二号とO三号が乗った「ワンボックスカー」である。
荷台にはKの荷物が満載してあり、まともに真直ぐは走らない状態でありながらもアクセ
ル全開で後を付いて行ったのである。
当然同じスピードで走れる訳もなくどんどん離され、終に快速のKの車は視界から姿を消
してしまったのだ。焦ってアクセルを目一杯踏み込んではいるのだがK二号とO三号の車
には無理があった。それでもKの車からの遅れを少しでも取り戻そうと二人は必死に車を
走らせたのだ。

どれくらい走っただろうか、既に仙台を過ぎた辺りのパーキングエリアで、視界の届く所
に停車している「スカイブルーのカルマンギア」を発見したのだ。
((いた~っ!))と思った二人はすかさずそのパーキングエリアに向かった。
そして数時間振りにKと対面した瞬間二人を待っていたのはKの説教であった
Kは二人に向かって、
「何やってんだよ!お前ら遅いんだよ!」といきなり怒鳴り付けたのだ。
この理不尽さは人の道を外れている。どう考えても一緒に走れる訳は無いのだ。
しかし、Kには不思議な魔力が存在し、これくらいの事は何事も無かったかの様に上手く
流すのである。
この時も一緒に食事を済ました後、うまく丸め込まれた二人は仲良くN県へと向かったの
である。この不思議な魔力は口では言い表せないが会えば何か感じる筈だ。
しかし、この私はそれら全てを把握している。Kの考えるちょこざいな事は手に取る様に
解るのである。

この後M市へ到着した一行は数日間でお気入りの場所を見つけ、数カ月後にはお店を築い
たのだ。まるでスズメバチの軍団だ。
(M市へ到着後数日間滞在したK二号とO三号は八戸へと帰っては来たのだが、店を造作
する段階でまた呼び出され、再びM市へと向かい一緒に店の内装工事を手伝ったのである
。頑張れ!K二号とO三号!いつか良い事もあるぞ!)

私はと言えば、Kが去った後暫くは気が抜けてしまっていた。
なぜなら6年間も一緒にタッグを組んで進んで来た相棒がいなくなったのである。これに
は少し参ってしまっていた。確かにKの下にはK二号やO三号をはじめ、数人の若手が育
ってはいたのだが、私自身がしっかり気を取り戻すのには2~3ケ月の時間が必要だった
様に思う。
人にはいつか別れが来る事は解ってはいるのだが、やはり別れと言うものはなかなか辛い
ものなのだ。どうしても過去のグッドな出来事を思い出してしまうのである。

~例えばKは朝、腹が減ると私の家に来るのだ。そして勝手に入って来てはソファーに横
たわり新聞を広げる。次ぎに私に向かって、
「卵は半熟でお願いしま~す!」と横になったまま言うのである。
まるで家族であった。弟の様な存在であった。
そのまま『おぅ!』と目玉焼きを作り一緒に朝飯を食うのである。~

~またある時、大学のサーフィン部に所属していたKは生まれて初めてボードに乗り海の
沖へとパドリングで進んだのだ。皆が一生懸命なパドリングで進む中、Kだけはすんなり
と沖に出る事が出来たのだ。
これには訳があった。
波際には一ケ所だけ沖に向けて勢い良く逆流する所が存在し、たまたまこの流れに乗って
しまったのである。この流れは遥か沖までも進み止まらないので、戻る事が難しいのだ。
これに気付いたものの遅かったのだ。急いで戻ろうと今度は浜に向かってパドリングする
も、どんどん沖に流されて行ってしまうのである。
日頃運動不足のKにとっては予想外の過酷なものであった。誰にも気付いてもらえず、ボ
ードに乗ったまま流されてしまったのだ。
どうする事も出来ずにプカプカと流されていると、前方に小型の漁船が操業しているのが
目に入った。
これにすがるしか道は無いと思い、さっそく最後の力を振り絞りその漁船に近付き、
「助けて下さ~い!」と叫んだのである。
すると、それに気が付いた漁師のおじさんは、
『ばかやろう!今、忙しいんだ!あっち行け!』と断ったのである。

(うわぁ~それはないでしょ!)と訴えても無駄であった。そしておじさんは、
『このままだまって流されればあっちの岸に着く!』と付け加えたのである。
その言葉に力尽きたKはボードにもたれ掛かり数時間を過したのだ。
その後、そのおじさんの指摘した場所に無事着岸し助かったのだった。~

私の記憶では、その後ボードを手にする事は一度も無かった筈だ。
だが以前Kの地元に遊びに行った時に、Kの友人達とサーフィン談義に花が咲いた事があ
った。彼等の数々の質問に答えるKはまさしく真のサーファーそのものの様相を呈してい
た。一度しか乗った事が無いのに。
まぁいい~か?と思った。


そんな、楽しくも懐かしい出来事が螺旋状に脳裏を過るのだった…。

Kから電話があったのは旅立ってから3ケ月後であった。店も完成し数日後にはOPEN
する事が出来るとの事であった。店の名前も決まり【G●●● S●●●●】と言うそう
だ。良い名前だ。
私からの初の独立である。頑張って欲しいと心から思った。

Kから教えてもらった記念すべきOPENの日だった。
御祝の電話を一本入れようと受話器を取り、新店【G●●● S●●●●】の電話番号を
押すと呼出し音が鳴り始めた。
((トゥルルル~トゥルルル~トゥルルル~!))その三度目の呼出し音の後、Kはその新店
にてカチャッと受話器を取ったのだ。そして初々しい元気な第一声を発したのだ。

「はい!ティーバードです!」と。


?????おいおい、それはこっちだろ!

ティーバードでも散々楽しいボケを聞いてきたのだが、君の門出に相応しい新店舗でのす
ばらしい初のボケをありがとう!

(当時こき使われていたK二号とO三号は現在独立して店を持ち立派に経営者として頑張
っている。K二号は【K●●●69】と言うプールバーを2006年に、O三号は、
【a●●●●】と言う洋服屋を2004年にそれぞれOPENしたのだ!
もちろんKも健在で2007年7月25日で40才になる。
そう、このコラムのアップの日である。おめでとう!
そして今でも第一線でICHIと言うすばらしいパートナーと共に頑張っている。)
皆で会う事も少なくなったのだが、たまには一緒に酒でも飲みたいものである。

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