3月、彼岸の時期がやってくるとこの春の到来をいち早く察知できるかのように、スーパーの惣菜コーナーにはパックに詰め込まれた「おはぎ」が居並ぶ。
洋菓子ではシュークリーム、和菓子では「おはぎ」が私の大好物である。それはなぜなのか、思い巡らせてみると、どうやらそのルーツは幼い頃に祖母が作ってくれた「ぼた餅」にありそうだ。
祖母は季節を問わずにそのぼた餅を突然に作ってくれたものだ。ある時は夏真っ盛りのお祭りの時だったり、ある時は秋の紅葉彩る時だったり、またある時は気温が緩む今時期だったり。ただ、冬時期での思い出はほぼ無い。
その祖母の作るぼた餅は巨大であった。大人の握りこぶしほどの大きさがあり、それはたっぷりの粒あんでもち米を無造作に包み込んだ逸品で、飾らないいびつででこぼこの姿がまた愛おしいものであった。ひとつが大きな塊だったので幼い私にとっては当然これひとつで腹いっぱいなのである。それでもあんこの一片すら残さずにすっかりと平らげたものである。さすがに続けてふたつ目には行けなかった。
そんな1960年代の素朴な景色の中、曾祖母の姿もそこにはあった。
祖母の義理の母であるがゆえにやはりそれなりの高齢であった。膝が悪かったのだろう、外に出るときは杖を常用していた姿を思い出す。そんな中、最も私が曾祖母としての姿を焼き付けられたのは朝食時であった。当時、祖母の家には立脚付きのブラウン管テレビはあったが、冷蔵庫は無かった。だから夏にはその行動を目にすることはなかったが、秋から春の間の涼しい季節には、曾祖母は常にこし餡を常備していて、朝食時白ご飯の上にそのこし餡を乗っけて食すのである。幼い私には少し気持ちの悪い光景であった。白ご飯と言えば納豆やねぶた漬けやノリの佃煮などのしょっぱいものを乗っけるのが主流であり、甘い食材をホカホカの白ご飯の上に乗っけるという行為はとてもじゃないが素直に受け付けられるものでは無かった。
横目で覗く曾祖母のあんこ飯を食すその姿は、私にはとても不思議なものに映っていた。
今思う。
曾祖母の時代は戦争などもあり、それこそ物のない時代であった。そんな過酷な時代での砂糖の甘さはどれほど贅沢なものだったのかが推し量られる。それが昭和の中期に入って、それらが頻繁に手に入るようになりだして、その甘味を自由に出来るようになった曾祖母はもはやあんこが総菜のひとつと化してしまったのである。当時は思いもしなかったが、考えてみれば形は違えども「ぼた餅」だって同じようなものなのである。もち米とうるち米の違いだけなのだ。炊き立てホカホカのご飯の上にしっとりとしたこげ茶色のこし餡を乗っけて、ご飯とこし餡を均等に器用に摘まみ上げては口に運び、幸せそうに咀嚼するその姿は、今にして思えば曾祖母にとって至福の時間だったに違いない。今なら納得である。
ただ、未だ私はそれに挑戦する勇気を持ち得てはいないままなのである。