Column

第195話  CMってやつは

  わかる、それはわからないではない。
私だってそれを理解できない程の柔軟性という受諾を持ち合わせていないわけではない。それがどれほど重要で、それによって数々の番組が作られ、しいては局から付随する会社組織までが成り立っていることくらいは重々承知している。
しかし、しかしである。あまりにも露骨なその戦略にははまりたくない私がそこにはいる。
「さぁ、この続きはCMのあとで・・・」
各局テレビ番組でよくあるフレーズである。
画面上視聴者の興味を限りなくそそっておきながら、それを途中で突然打ち切り、強制的にCMを視聴させてしまう手法だが、その番組の続きが面白そうだったり重要そうだったりすると、ここぞとばかりに何本ものCMを連ねさせての放送となり、その終わりの見えない長さでこちらの気持ちをすっかりと興ざめさせてしまう。
ひどいものはCMの途中本編に軽く戻ったかにみえて、そこでも音声で協賛社数社の連呼、もちろんそれは振りで、再びCMに戻ったりもするスペシャルバージョンもある。数えると12CMが連なり、それには骨の髄まで辟易としてしまう。
そんなバージョンの時、私はその番組の続きにある程度興味があってもすっぱりと諦めてチャンネルを変えてしまう。違うチャンネルでニュースもしくは何か心地よい番組が続いていれば結局それでも私は構わない。案外切り替えはきく方だ。
結局、長々と続くCMを我慢して見ていても、いざその番組の続きが始まったとしてほとんどが、やっぱりそう来るか、と言った具合が常だからである。そしてそれらの情報はよっぽどの事がない限り、その場で、へ~と思ってもほとんどがすぐに忘れ去られてしまうような傾向にあるからである。特に物忘れの激しい私にとっては、である。
CM自体に関して言えば、言葉の連呼は2回までが私の中の許容範囲である。
とにかく強烈なインパクトを与えなければと3回以上呪文のように言葉の連呼するCMも多々あるが、それらはすでに耳障りであり不快でしかない。それ相応に予算をかけて製作しているのはわかるが、過剰な連呼はかえって会社のイメージダウンに繋がっているように思う。それら生理的に受け付けないCMが流れると、私は躊躇せずにチャンネルは変えてしまう。
心地よいCMは淡々と流れながらもはっきりと記憶に残るし、視聴者を追わないのだ。そしてそれらはさりげなくも人々の記憶のどこか片隅に残り続けるのである。
やっつけでは到底いいCMは作れないだろう。
それを扱う局側、そしてそれを見る側それぞれの思いを考えると、とにかくCMってやつ難しいのである。

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