Column

第190話  新しい時代

  新型コロナウイルスの感染者がここ日本でも、徐々にではあるが減りつつある。
青森県では5月7日に緊急事態宣言は解除され、ある程度活動の場を広げていけるようになった。中旬には未だ感染者の多い都市部を除いてその解除範囲が大きく広げられた。その都市部も下旬にはとうとう解除を迎えているのかもしれない。
気温上昇と湿度の上昇を加味したうえ、いままでの不自由な自粛生活とガタガタにまで打ちのめされた経済的苦境、それらをひっくるめて我慢し続けてきた成果が少しでも報われそうな気配が漂うが、本質は未だ未知数。
まだまだ、ほんの数カ月前の、コロナって何?な~んて気にも留めなかった平穏な生活にすぐには戻れないだろう。コンコン咳をしている人には近づかないだろうし、夜の街では大勢での飲み会は減るだろう。都市部への出張は考えるだろうし、海外旅行はもってのほかだろう。そしてマスクと手の消毒は欠かせなくなるだろう。
夏に向かって収束してきたとしても、やはりある程度の窮屈な暮らしは続くに違いない。
そして間違いなく、冬季になれば奴らは再び静かにターゲットを探し出し、感染者を生み出すに決まってる。厄介なインフルエンザと同じように。
過去、歴史の中でのウイルスによる悲惨な出来事を社会の教科書で見聞きしたことはあっても、これほどまでに世界を社会を混乱の渦の中に引きずり込んでしまった悪夢な現実を私は知らない。これは、新しい社会の教科書の1ページを埋める為には十分な体験だ。
時代を、そして近未来の生活模様をも変えてしまう程の大きな出来事だ。
会社には出社することも無いテレワーク化が加速し、テレビではリモートによる出演者がまるで自然な形で登場しての構成、外出しなくても自宅でそれによって友人達とも楽しめる。料理は宅配で好きなものを注文できるし食材の注文だって可能だ。それが主流となれば、街も商店もカフェすら何もかもが必要なくなってしまう時代がやってくるかもしれない。
そして学校は9月に入学式をやるようになっているかもしれないし、そうなれば節目としての季節が桜の春から紅葉の秋に変わっているかもしれない。
大きな変化がこの新型コロナウイルスの大事件を機にいっきに起きようとしている、そんな節目な年となった、いや、否応なしになってしまった。
ただ、このコロナ禍に対し社会があまりにも及び腰な対策をとり続ける傾向に移行し、この先に予定されていた大小さまざまなイベントが情け容赦なく中止になってしまっている現状はどうか。取合えず止めておけば責任問題だけは回避できる的発想はあまりにも無能で無責任すぎる。ある一定の基準を満たしたはずの収束とこの数か月の経験的対応の方法をもとに最大限の配慮をしながらいけそうなものは徐々に開催方向へと進んでいっても良いのではないだろうか。やり方は努力の先にはきっとあるはずだ。どこかのタイミングでその部門の勇気ある代表者が責任をもってアクションを起こすべきだろう。
出口が見つかりそうになってきたこの時期になっても、こう何でもかんでも中止では身も蓋もないしまた意気消沈してしまう。
ウィズコロナ、特効薬にワクチン開発が進みそのコロナウイルスと共存し歩むための新しい時代はすぐそこにやって来る。

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