Column

第40話  一家団欒

私が小学校3年生になった時だった。それまで祖母の家で年子の妹を含む三人で一緒に生
活をしていたのだが、突然、両親そして年の離れた弟二人との同居が決まり、学区は同じ
なのだが別町内にある両親の元へと生活の拠点を移した事があった。
私自身この環境の激変には幾許かの戸惑いと計り知れない程の不安が伴った。後に増築し
たのだが、両親の家は当時2LDKの戸建てで、当然ではあるが個室を与えてもらえる程
の余裕は無く、いったい何処でくつろげばリラックス出来るのだろうか?はたまた両親や
弟達とどうやってコミュニケーションをとったら良いのだろうか?全く見当も付かずに随
分迷っていたものであった。
当然妹もこの環境に慣れるまでの暫くの間、私の後に隠れてはまごついていたものだ。幼
かった私達兄妹はそれぞれの家庭に存在する目に見えない暗黙の秩序をいち早く学ばなけ
ればならなかった。

そんな生活も月日の流れと共に徐々に慣れ、以前の平穏さとまでは行かないまでも、それ
に近い生活サイクルに戻りつつある頃であった。
その家の近所にYと言う未だ馴染みの薄い同級生の家があった。そのYとは学校からの下
校時何度か顔を合わすうちに自然と打解けた。何か触れあうきっかけがあったのだろうが
今更記憶の片隅にも残ってはいない。B玉を貰ったとか、メンコ勝負を申し込んだとか、
たかだかそんな他愛無いものだったに違いない。
一旦仲良くなれば後はもう早いもので、時折彼の家を尋ねては一緒に遊ぶ様になったので
ある。祖母の家の近所には昔からのたくさんの友達がいて、こちらに引っ越してからもち
ょくちょく遊びに出向いてはいたのだが、やはり帰りがどうしても遅くなった時など、歩
いて帰宅するのが億劫になってしまっていた。そんな時であったからこそ、尚更近所の友
達が欲しかったのかもしれない。
このひとつの出会いからは遠出をする事も少なくなり、ついでYの家へと向かう回数が増
えて行ったのである。
Yの一家は両親と兄が二人、弟が一人と言う六人家族で、まさに男家系であった。その兄
二人は音楽やら美術やらを専攻する芸術肌のとても気の優しい人達で、私達とは随分年が
離れている事もあり、多方面に於いて大変面倒を見てもらったものである。
唯一の女性である母親は笑顔の絶えないたおやかな人で、頭の悪そうな私をいつも温かく
迎え入れてくれたものだ。全体的に受け取るおおまかな印象としては、波風の立たない大
変穏やかな家庭環境と言う有りようで、世間一般的な男兄弟の猛々しい騒々しさは微塵も
見当たらず、家の中も整理整頓が行届き極めて小奇麗なものであった。
父親はと言えば地方公務員をしていた記憶があり、青森県内を隈無く転勤していた様子で
あった。おそらく父親は子供達の事を考え、何処へ転勤するのも単身赴任を貫いていたの
だろう、普段その家にいる事はめったに無く、私もそうそう会う事は無かったのである。
(職業はあくまで幼年期の頼り無い記憶であるが、遠隔地にいた時代があった事は確かで
ある)
そんな時世の大晦日は12月31日の夕刻であった。世間ではあれやこれやと忙しいこん
な日にまでも私はYの家にお邪魔していて、彼等家族の恒例行事である家族マージャンに
付き合っていた事があった。小学生であった私はここでマージャンを覚えたのである。
いや、かじったと言った方が程好い。時刻は丁度午後5時を少し回ったあたりで、冬の頃
12月のこの時間帯には既に日もどっぷりと落ちて、日本国中ありとあらゆる空間は明か
りが無ければ真っ暗なのである。しかも昨日からの雪も止む事知らずの状態で、吹雪とま
ではいかないまでも深々と冷たい粉雪が降り続いていたものだ。そんな悪条件で悪天候な
日に、Yの父親が赴任先である弘前から正月休暇を利用して我が家へと帰って来たのであ
る。帰って来たと言っても電車やバスなどではなかった。排気量50ccのホンダカブで
帰って来たのである。幼く、祖母の手提げ金庫からちょくちょく小銭を拝借するなど、物
事の善悪の判断もまともに出来てはいなかった小悪人の私ではあったのだが、このYの父
親の途方も無い行動力には物凄さと、雄々しさを素直に感じ取ったものである。
この南部地方ですらこの雪の多さなのだから、弘前など津軽方面はかなりの雪の量だった
のだろうと推測された。車道も深いわだちが出来て走り難いのに加え、路面は結氷化の状
態であったはずだ。そこをか細いバイク用チェーンを付けてトコトコ走って来たのである
。ゆうに100キロは超える距離であり、何事も無く順調に走れたとしても15~20キ
ロ走行として5時間以上はかかる計算になる。その車両の往来激しく危険な幹線道路を黙
々と走り続けて家族の元に帰って来たのである。死と隣合わせの道程であり、私は単純に
偉大な人だと思ったものである。

(おう!今帰えったよ!)と父親は幾重にもパンパンに膨らむ程防寒着を着込み、全身は
まるで雪だるまのごとくに雪で覆われたまま、大きな声で玄関へと入って来たのだ。この
光景は40年経過した今でも脳内スクリーンに映像として鮮明に残っている。
(あ~お帰り~、あらあら大変だったね~!寒かったでしょ!こっちも昨日から雪が止ま
ないから、あっちはもっと凄かったでしょ!風呂も丁度良いよ!)と母親はマージャンの
手を休め、待ち焦がれた様子で父親の元へと駆け寄ったのである。
(大丈夫、大丈夫!ん、やっぱりあっちの方が雪はまだ多いな~、こっちに来るにつれ楽
になったよ~!どれ風呂にでもはいるかな!)と、正確ではないにしろこんな会話がなさ
れた様に記憶の隅に残っている。全身に付着した凍てつく雪を払い、数時間の風雪や悪路
との格闘の疲れも見せずに居間へと入って来たのである。
遊びに来ていた私に気付くと(お~ゆっくりしていって!)と一声掛けた後、父親は風呂
場へと向かったのである。途中、その父親の手にはバイクで大切に運んで来た、この兄弟
や母親へのお土産がいっぱいであった。そのお土産を受け取った息子達の喜び様は、久し
振りに父親に会えた安堵感と相俟って、それはもうはしゃぎまくっていたものだ。
その昭和の日本映画の一場面には必ずありそうな光景に出くわし、私自身もなんだか胸が
いっぱいになったものである。父親は倹約家であったのだろう、この時の自身の移動費な
どは皆のお土産の方に向けていたのかもしれないし、また貯金の方へと回したのかもしれ
ない。そしてこの時母親がバイクの危険性を持ち出さなかったのは、このバイクでの移動
が習慣的な事であったのだろうと思われた。
この後、家族全員が居間に集まり父親を囲んでの団欒は、私がかつて味わった事の無い笑
顔の絶えない温かいものであり、またさりげなく自然なものでもあった。それから数年間
、中学を卒業するまでこの家族と付き合わせてもらい、その間、誰かが不意に怒り出した
りとか兄弟ゲンカになったりした事を私はただの一度も見た事は無かった。羨ましい程、
実に平和そのものの家族であった。そして私の理想の家族の姿であった。

小学生の頃のYは絵の才能において目を見張るものがあり、マンガなどのキャラクターを
描かせたら右に出るものはいなかった。同級生などはよくノートにそれらを描いてもらっ
ていたのだが、私は女性のヌードを描いてもらっていた。オッパイのリアルさに加え、腰
のくびれからヒップに掛けてのラインが妙に艶かしく、あまりの芸術性に?ちょっとした
血圧の変化がみられ目の前がクラクラとしたものだ。どうやらその手法は兄から教わった
らしい。その後も私の要求は留まる事を知らず、頭の中で考えた数々のポーズを無償で描
いてもらい、その芸術性を高めてもらったのである。これらは私の宝物のひとつになった
事は言うまでもない。

時も経ち、中学に進む頃になると部活に費やす時間や雑務が増え、さらに行動範囲も広域
に及ぶまでになると、Yの家も徐々にではあるが縁遠くなってしまっていた。さらに高校
に進学するに至っては、地区まで全く別になってしまった。そうなれば必然的に全く会う
機会もなくなってしまったのである。交流はこの時点て途絶えたのである。

それから何年会わなかったのだろう。確かお互い24才になった時である。Yがひょっこ
りと我が家を訪ねてきてくれたのだ。指折り数えてみると約8年振りの再開である。
どうやらYはバイクを手に入れ様だ。よっぽど嬉しかったのだろう、そのバイクを私にわ
ざわざ見せに来てくれたのである。小学校時代を考えるとYとバイクと言うワイルドな趣
味はどうしても繋がるものではなかった。が、今、目の前にいるYは違っていた。体躯も
しっかりと大きく成長し、当時の面影を残しながらも男らしく凛とした面構えに変貌して
いて、私は圧倒されたものだ。どうやら時間と環境は良い意味でも悪い意味でも人を変え
て行く様だ。Yは良い方に変わっていてくれていた。
バイクはフルカウルを装備し、いかにも高速で走りそうな風貌で鈍くも外灯の下で光り輝
いていた。私の立っている横でYも嬉しそうに自身のバイクを眺めている。その横顔は小
学生の頃のあのやさしさ溢れる面持ちに変わっていた。こういったシチュエーションでは
得てして男は子供に戻るものなのだ。
暫しのバイク談義の後さっそく我が家に上がってもらい、会っていなかったここ何年かの
出来事や、一緒に遊んだ頃の話を懐かしく語ったものである。Yの家族も皆元気だと言う
。それはなによりだ。何年会っていなくても幼友達というものは、瞬時に昔の心通う感覚
に戻れるものなのだ。今こうして訪ねて来てくれた事に心から感謝である。数年間のブラ
ンクを軽々と乗り越え再び気のゆるせる交流を持てた事で、知らず知らずの内に渇き切っ
てしまっていた私の心の襞に沸々と潤いが湧いて来るせせらぎの音を感じた。と同時にま
たあの憧れた家族の暖かさと馴染んでいた筈の懐かしい臭いに触れてみたいと思った。
(あの頃とちっとも変わってないだろうな~!) 
今度機会があれば簡単な土産でも持って、絶対にもう一度訪ねてみようと心に誓った。

再会からわずかな日が経った。

Yの死を伝える電話が鳴った。

24歳…。

あれからYが生きた季節と同じ24年間が再び過ぎた。
早過ぎた事を今更悔やんではいないが、時折思い出す事が私の中では大切な事なのだと思
えた。
彼が存在した事の大きな価値が見えて来る。
ふんわりとしたセピア色のあの一家団欒の風景。
その幽かな情景が遠い茜の夕空にぼんやりと浮んでは風に消えた。

コラム一覧

ティーバード ブログ&コラム