Column

第18話  一酸化炭素中毒事件(2)

私は幼い頃、祖母の家で生活をしていた。
両親が忙しい事もあり、4人兄弟の長男であった私と年子に生まれた妹のふたりは、祖母
の家に預けられていたのだった。
祖母は男勝りの矍鑠としたとても厳しくそして優しいひとだった。
(2006年現在も90才でバリバリ元気そのもの)

それは、私がまだ幼稚園に通っていた頃である。
園児仲間でかくれんぼごっこが始まり、鬼は誰だったのかは全く記憶には無いのだが、確
かに私は大きな何かの物陰に隠れていた。
するとなんだかお腹が痛い。
そう、ウンコがしたくなって来たのだ。
だが今はかくれんぼの真最中である。この場所から今出たら絶対鬼に見つかってしまうの
だ。
園児にとってかくれんぼで最初に鬼に見つかる事程最大級の屈辱はなく、外に出るに出ら
れない私はウンコの方を出してしまったのだった。
それでも暫くは隠れていたのだが、どうしても気持ちの良いものではない。
とてもこの状態に絶えきれなくなくなった私は、誰にも見つからない様にそっと処理すべ
く、まるで忍者のごとくに体を獣へと変化させ素早く祖母邸へと帰り去ったのだった。
だが、全てお見通しの祖母にはなんなくみつかってしまった。
丸裸にされ頭から冷たい井戸水をかけられウンコを洗い流しながら、こっぴどく説教され
たのであった。

また祖母の小さな金庫から小銭を少々御借りした時なども、やはり直ぐにみつかってしま
い1メートル程もある竹製ものさしで、尻が腫れ上がる程殴られたりもしたものだった。
(だが、手提げ金庫の中には数種類の硬貨が無造作に詰め込まれている状態で、その中か
らたったの一枚の硬貨だけしか抜かないのに、なぜいつもばれてしまうのかは未だに理解
出来ないのである。)

こんなアホな幼少時代の一般的な暖房設備と言えば炬燵であった。
祖母の家にあった炬燵は練炭を使用する掘り炬燵であり、それこそ足元で赤々と練炭が燃
えている代物であった。
そしてこの頃の私はこの掘り炬燵の練炭の燃えている時の臭いが大好きだったのだ。
その日も夕方遊び疲れて帰宅した私は、夕飯を終え炬燵に足を入れながらテレビを見てい
た。
すると炬燵の上掛け布団の隙間からあの練炭の燻るいい臭いがしてきたのだ。
さりげなく上掛け布団を少しだけ上げてみた。すると増々いい臭いがしてくる。
とうとう私はその臭いを嗅ぐ為に、鼻から下は上掛け布団の内側に入れた状態で、目だけ
を出しテレビを見ていたのだった。
とても好きな臭いだった。
そしてなんだかフワフワと気持ちが揺らいでくるのだ。
段々と夢の中でリラックスしながら身体が浮いて来るような感覚が全身に広がって来るで
はないか。この感覚は今でもはっきりと記憶の中に染み付いている。だがこの辺りから先
の記憶は全く無い。
多分私はここで気を失ってしまったのだと思う。そして祖母はここから大変だったのだ。
倒れ込んでいる私を発見した祖母はまず救急車を呼び、近くの総合病院へと運んだ。
だがその病院で一晩治療を施したが何の効果もなく、私は仮死状態のままなのだ。
一晩でこの病院に見切りをつけた祖母はその病院の先生の制止も聞かず、仮死状態の私を
担ぎ上げタクシーに押し込んだ。
そして大きな町の大きな病院を目指しタクシーを走らせたのだった。
なんと大胆な人である。

そしてタクシーに2時間も揺られたのだろうか。私はそのタクシーの中で目が覚めた。
とても安静とは言えないこのタクシーの揺れと、尋常ではないこの状況がかえって良かっ
たのだろうと思う。
幼い私は、元気で勇敢な祖母の機転のおかげで九死に一生を得たのだった。
本当に今でも心から感謝している。だが、私はこの一件以来、どうも勉強が苦手になった
ような気がしている。
どうやら計算能力と記憶力が低下したのだろう、やはり後遺症なのだろうか?
祖母談…「いやいや、何言ってんの。前からだべ!

あれ?

※新しい年2006年を向かえ前回のコラムに書かせてもらった浅虫水族館の事が気にな
り1月中旬ついに10数年振りに行って来たのだった。
この日も前回とまでは行かないまでも、なかなかの悪天候の吹雪状態で、もしかすればな
どと期待してはいたのだが、………後々。

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