「隙間の空いてる方向へ指示出して」
毎日数えきれないほどの来所者を相手にしているからだろう、そんなそっけない言いぐさで白衣の天使は私へと指示を出した。
テーブル上の視力検査機の双眼鏡じみたガラス部分に両目を押し付けながら、先に見える一部分の掛けた円の羅列を見つめる。やがて左側の目前にシャッターが下り視界が奪われる。未だ視界の広がっている右の目から検査が始まる。
ここ数カ月前から嫌な予感はしていた。テレビで映画を見ている時に、画面下の字幕の文字列がずれて二重に絡み合い、何が何やら目を極限まで細めないと読めないことが続いていた。おそらく乱視という奴だろう。それは日によって調子の良し悪しがあったのだが、近頃はダメな時が多い。そこで、映画はもっぱら吹替版に頼るようになっていたのは事実だ。
中盤程度の円の隙間は何となく認識が出来た。いつもなら、昨年ならこの辺りの隙間は余裕で認識できていたはずだった。認識ポイントの支持が一段下がる。もうはっきりとはその隙間は分からない。おそらく重複して見える例の乱視の仕業と言っていいだろう。取りあえず感覚で上下左右の自己認識を示してみる。さらに一段下がる。もうそこにあるのは全くの点であり、あるはずの隙間などは微塵も見えない。ここまでだろう、ギブアップ。限界まで瞼をこじ開けたって見えないものは見えない。
左目も同じようなものだった。この一年で急激に視力が落ちている。
結果は0.8だった。昨年までは1.0~1.5位行ったり来たりを繰り返していたことが嘘のような結果に終わった。加齢と言ってしまえばそれまでなのだが、そうとしか言えないのも確かな事だ。これは素直に受け入れて行くしかない。すでにそれなりの齢なのだからしょうがない。ここ数年、視力の落ちを自覚してはいたのだが、そんなはずは無いと自己否定のままに時を過ごしすぎた。そろそろ潮時か。この先運転免許証も眼鏡使用になる可能性は大きい。
以前知人が言っていたことを思い出す。
「コンタクトをして視力が回復したのはいい事なんだけど、逆に見え過ぎて気持ちが悪いんだよ。コンタクトした初日の朝食の時に、目の前に並んだ料理がはっきりしすぎてグロテスクで食欲が失せたよ」
その時私は、ほんの冗談交じりだろうと思っていた。視力のいい私には彼が何を言っているのか全く理解ができていなかった。ちゃんと見えてる事に違和感を覚えるなんてありえるのか?と疑問を持ったものだ。
すでに数年前から私は老眼鏡を使用するようになっていた。それでも食事の時にその老眼鏡を使う事は無かった。なぜなら小さな文字は見えにくいものの、テレビ画面や目の前に並ぶ料理などはそれなりに普通に見えているからだ。ある日その食事中に携帯電話が鳴った。その携帯電話の相手の名前は裸眼では認識できない。私は傍らにある老眼鏡を付けた。そこには友人の名前があり、私は安心して電話に出た。近頃は見ず知らずの電話番号からの詐欺電話が頻発していて安心ならない。その電話が済んだ後、私はその老眼鏡を付けたままで目
の前の食事と向き合った。
なんだこの納豆の一粒一粒の表皮にある月のクレーター然とした不気味さは。はっきりくっきりとその老眼鏡は素材そのものの本来を反映させた。それを目の当たりにした私は、少しだけ気持ちが引いた。そうか、見え過ぎるとはこう言う事か。以前友人が話していた事が蘇る。奴は本当に気持ち悪くなっていたのか、今更ながら納得がいった。
私は老眼鏡を外して再び食事と向き合う。これくらいが丁度いい、そう思った。
例の乱視はこの先徐々に悪化が進んでいくだろう。それと向き合い普段の生活では全く使う事の無かった眼鏡と言うものを、をそろそろ用意しておかなくてはならないだろう、と覚悟を持った。