Column

第249話 給食の怪

小学生の頃の給食は、私が3年生になったあたりに導入されたような気がする。気がする、のであって確かではない。誰かに聞いてみたりどこかで調べたりした訳でもない。地方によっても違うだろうしあやふやな記憶を辿っての、そんな気がする、なのである。

それは大まか1960年代であるから、家庭での食事は目新しさなど無い普通に質素なものであった頃だ。おかずと言えば鮭の焼いた奴だったりクジラの赤身肉の焼いた奴だったり単なる卵焼きなどだ。(近代ではクジラ肉はポピュラーではない)

あとは煮干しでちゃんと出汁を取った味噌汁付き。カレーなんかも人参とジャガイモてんこ盛り、そこにまるで原色の絵の具でも溶かしたかの様な鮮やかな黄色の毒々しいものだった。ただ、それはそれで口馴染みよくすごくうまかった。

給食が始まって弁当を作ると言う手間がなくなった親達は大いに喜んだ。そして幼かった子供達も弁当と言う荷物がなくなり随分と身軽になった。それと同時にそのメニュー表に書かれてある好物の羅列に一喜一憂し、また聴いた事もないようなメニュー名に大きな期待もしたものだ。スパゲティやクリームシチューなど、普段絶対に口に出来なようなモダンな料理が出るようになった。クジラ肉の竜田揚げや鳥の唐揚げだって給食で初めて口にしたときは世の中にこんなうまいものがあるのかと大感激したことが今でも脳裏を過る。

そんな児童大絶賛の給食だったが、私にはどうしても口にできない品がひとつだけあった。

それはカットリンゴ入りマカロニサラダであった。マカロニサラダそのものは大好きなものであり、リンゴだって大好きなのである。しかし大好きなそれらが混じると、途端に食えない存在になるである。なぜか、最初の出会いからダメだった。まず、それがプレートに乗って机の上に運ばれてきて目の前に置かれた瞬間、「生ごみ」のにおいを感じたのである。混じった生食材が織りなす不快な臭いを感じた私の心にはまず、それに対する拒否反応が芽生えたのである。なんなんだこれは、と思ってしまったのだ。それでも恐る恐るマカロニを口にしてみると微かな生ごみ臭は感じるもの何とか飲み込むことは出来た。次にマヨネーズにまみれたリンゴの断片を口にした。これがいけなかった。とてもじゃないがマヨネーズとシャキシャキのリンゴとの相性をうまいと感じ取ることは不可能だった。ましてやマヨネーズにまみれたリンゴの咀嚼時、口内に電気的刺激が走るのである。乾電池の電気残量を図るときにマイナス極に持ち手の人差し指をあてて、片方のプラス極を舌に乗せると、舌先にピリッとした電気的刺激となんらかの苦みを感じるあれである。その嫌な刺激と苦みがリンゴを嚙むたびに私の口内に充満するのである。ふた口ほど口にしてみたが、あきらめた、これは無理。

隣の席の山田君がそれをうまそうにガツガツ食っているのを見て、私はなおさら気持ち悪くなってきた。こんなものよく食うな、そう思った。

「山田君、それ好きなんだ、これも食っていいよ」

私はそれを山田君に全部やった。

「ありがとう、いいの」

山田君はにこりと微笑み受け取った。

これ以来、ひと月ふた月に一度のペースでそれは出た、が、私は2度と口にすることはなかった。

現在でもスーパーの総菜売り場で、滅多にあるものではないが時折このカットリンゴ入りのそれを見かける時がある。

「今でもあるんだ」と、その普遍ぶりに驚く。

ところで、山田君は大人になった今でもこれが大好物なのだろうか、ちょっと気になる。

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