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第209話  夢とうつつは紙一重

  その日、なぜか私はかつて経験したこともない遺体運びの補助をしていた。経緯は皆目わからない。乗っているワゴン車の荷台には補助者である私とストレッチャーに横たわった男の遺体が一体。それが誰なのかも分からない、まったく知らない顔だ。私はその遺体の傍らに立ち横たわる遺体が車の振動で転げ落ちたりしないようにしっかりと両手で支えている。
車はカーブを曲がるごとに遠心力で私たちを振り回す。私は足腰に力を込めてその揺れに立ち向かう。だが、とうとう大きな揺れで遺体がずるりと横にスライドしてしまった。
裸の上半身がストレッチャーからはみ出した。
とっさに私は、ずり落ちそうになる遺体の上半身の両肩部分を両手で押さえて落下するのを食い止めた。
「おいおい、もう少しゆっくり走ってくれよ」と私は運転手に一括した。
そして、ずれている遺体をもう一度ストレッチャーの中央部分に引き戻した。すると突然その遺体の眼球が15センチほど宙に浮く、まるで小さな気球みたいに飛び出した。
「まじかよ、いったいどうなってんだよこいつ」
気味が悪かったがそれ程怖さは無かった。まぁいっか、大したことでは無い。それからは大きな揺れもなくその目の飛び出た遺体はおとなしいものだった。
しばらくすると車はある民家の敷地へと入って行って、その玄関先で停車した。
「着きましたよ~」運転手の声が聞こえた。
その家には見覚えがあった。音楽活動を中心にあらゆるジャンルのアーティスト活動を続けているTの家だった。以前からの知人である。
車を降りてその家の玄関の扉を開けて中をのぞくと、すぐに大広間がありそこには大勢の若者がそちらこちらに陣取りワイワイガヤガヤと雑談の最中ってあった。Tの姿はなかった。
「すいません、遺体を持ってきました」私は大きな声で叫んだ。
「あぁご苦労様です、こっちのほうに運んでもらえますか」年の頃は40を少し超えてるくらいか、と思われる小柄な女性が一人私達の元へと駆け寄ってきてくれてそう言った。
「わかりました」
私はそう言って車へと戻り、運転手と一緒にその遺体を抱えて持ちあげ、まるでテーブルでも運んでいるかのようにすんなりと家の中に入れた。そして指示があった大広間の中央部分に敷かれてあった布団のなかへと差し込んだ。遺体は未だ眼球が15センチほど飛び出てはいるが、誰一人それを気にするものはいなかった。いや、その遺体にすら皆無関心なようだった。
「お茶でもどうですか?」さっき支持をくれた女性が私と運転手に透明なグラスに注いだ緑色の冷たいお茶を差し出してくれた。帰り際だったので私たちはその玄関先でそれを受け取った。
「ありがとうございます」
私は喉が渇いていたので目をつぶって一気に飲み干した。
うまい、飲み干して目を開けるとなぜか私は今立っていたはずの玄関先ではなく、例の眼の飛び出ている遺体のそばに座っていた。
さっきまで一緒だった運転手の姿はすでに消えていて、私はもうさっきまでの私ではなかった。
ここに集う皆はここにある劇団の団員であった。そしていつの間にか私はこの劇団の団長になっていた。自覚は十分にある、私は成し遂げなければならなかった。
そろそろ稽古の時間であった。
「さぁみんな、そろそろ稽古の時間だ、大事な公演がひと月後に迫っている、ここからが大事な時だ、稽古場に行こう」
私がそう言うと皆はわさわさと立ち上がり、ぞろぞろと家の奥にある稽古場へと向かった。
この時、私はとてつもなくオシッコがしたかった。これ以上の我慢には限界を迎えていた。
「俺はちょっとトイレに寄ってから行くから先に行ってて」
そう言って私は一旦劇団のトイレに向かった。そして便器の前に立った時に違和感が生まれた。んっ、これは、なんだ、と。現実的にもれそう、と気付いたのだった。
おっとっと危なかった。
遠い記憶では、最後にオネショをしたのは確か7歳の頃、小学校の1年生になったばかりの春だったのを思い出した。やばいやばいと目が覚める。
私は半分目を閉じたまま布団からむくりと起き上がり、寝ている2階から1階のトイレに向かう。目を閉じたまま便器に腰掛け用を足す。脳内の場面は未だあの劇団の中にある。その先どうなるのか興味があった。用を足し終え、半目で階段を登りながら再び布団の中に身を沈める。そこから物語が再び始動する。
「さぁ稽古をしましょう」
夢はなんの違和感もなく続く。突拍子もない展開をリアルから仮想空間へと瞬時に転移する。いつもの事だ。夢の中ではやはり夢とは気が付かない。再びその夢の中に戻ったとしてもそれは仮想の中の現実として向き合う。
夢からふと覚めたときに、ここで夢だと気づき、つまらない夢だったと興味を持てない時はリセットして再び眠りにつくが、楽しそうな夢は極力目を閉じたままトイレを済ませて布団に入り、その夢の続きを夢見るのである。これがまたなかなか楽しいのである。ほぼ毎日夢の中で未知なる体験は続く。
翌日の夢は、嫁と2度目と3度目の結婚式を上げなくてはならないシチュエーションだった。疑問はなかった。場所は都内新宿にある老舗ホテルだった。2度目の結婚式には間に合った。滞りなくことが済んだ。ただその1週間後には3度目の結婚式が待っている。とうとうその時がやって来た。私には時間が無かった。仕事が立て込んでいてようやく時間が空いたのは式の10分ほど前という過酷な場面、私は急いでそのホテルへと向かい、慌てていたのだろう、なぜか非常階段を駆け上がっていた。もう時間がない緊迫。着替えもしなければなら無かった。そしてもうひとつ、またオシッコがしたくなった。だがそんな時間はないだろう、皆を待たせては気の毒だ、なんとか我慢しよう・・・。
ここで目が覚めた。
夢と気づくのはほぼトイレのシグナルと言っていい。
私はトイレに起きた。今回はすっかりと目がさえていた。
あまりにもバタバタと私は夢の中であらゆる場面で急ぎすぎていた。全力で仮想を渡り切り、どっぷりと精神的に疲れ切っていた。サイドテーブルの時計を覗くと午前4時をさしていた。あと50分でジョギングのために起きる時間だった。これではいけない、私はすべてを忘れて布団の中に潜り込んだ。もう続きを見ることはなかった。
仮想体験はこれからも続くだろうし、また楽しみにしている。ただひとつ、トイレの事が気がかりだ。今はまだトイレで目が覚めているが、トイレを架空のままで現実と認識し布団の中で済ませてしまったら一大事だ。
そこだけは気を付けなくてはならないと肝に銘じている。

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