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第184話  甘美な寒風

  11月、これから寒さ厳しい季節がさわさわと足早にやってくる。
白い北国で生まれ育った私は幼いころ、やはりこの毎年巡ってくる雪の季節を違和感など微塵も持たずに素直に受け入れていて、これがそれなりに普通なものだと認識していた。
あたりを縛り付ける寒さには何か1枚2枚上着を羽織れば難なく解決したし、なによりも目の前にいくらでもある雪から雪玉を作っては友達と投げ合ったり、通学途中に存在する急坂を長くつで滑り降りたり、休日は頻繁にスキーに出掛けたりとなかなか楽しいものだった。中学に進学したって北国の人間は軽いコートを羽織っては寒風吹きすさぶ中、何キロもの道のりを平然と通学したものだ。当たり前だった。
それが、いつしか大人になるにつれて違ってくる。
寒さを厄介な痛みとして受け取るようになる。
特に進学や就職でここを出て温暖な地方での生活を経験してしまうと大ごとだ。皮膚感覚が違ってくるのと同時に寒さに対する拒否感が心のどこかに湧いてくる。それは仕方のない事だ。生活環境が変わってしまえば体質も当然のように変わる。すっかりとこの北国で長い間味わってきた遠い記憶を肌は忘れ去ってしまっている。
それから時間が流れ、いつしか生活拠点をこちらに移してからも、やはり冬は憂鬱な環境となる。その鬱陶しい感覚がそうそう変わることなく長く続く。
身も心もちぢこまる寒さに辟易としてる気持ちをどこか胸の奥の方にしまい込んで冬季の生活をしている。スキーなどウインタースポーツは楽しいもののそれ以外の不便さは相当なもので、雪の降らない地方をテレビや旅行でのぞき見るたびにうらやましく思ってしまう。幼い時はあんなに楽しい季節でもあったのに。
11月の半ば、光に満ちたどこまでも高い空が青く続く印象的な日、私はひとり八甲田大岳に登った。頻繁に登山はするが、山頂に雪のあるこの時期の登山はそうはない。以前岩手山をこの時期登った時は、5号目あたりでたまたま合流した地元の人と一緒に登った。この5合目あたりから雪が深まり足首程の積雪、先はこれ以上に積もっているはずだ。私一人ではこの先山道が積雪で確認できずに断念したに違いない。慣れた地形と樹形の記憶を頼りに歩き進むその人の後に続き、最高腰高までの積雪の道なき道を走破できた。この日は、岩手山にしては珍しく山頂は風もなく、この時期でしか堪能できないだろう美しい360度のパノラマを瞳に焼き付けた。
ここ大岳の、やや白んだ山頂は岩手山のそれとは程遠くあくまでも薄っすらとしたものだった。
気温も夏と違って随分と低くなっているこの時期、そう汗をかくこともなく気持ちよく登ることが出来る。8合目あたりで薄っすらと雪が山肌を覆う。ブーツの溝のパターンがサクサクと地面に残る程度で大した不具合はない。ただ、先ほどから風が強さを増している。
1歩1歩と高度を上げるたびにびゅんびゅんと吹きすさぶ風は情け容赦ない。
山頂前の石段の続く急坂は樹木もなく、銀色の凍てついた鋭利な風が私を弄ぶ。
ただ、不思議なことに、なんだか気持ちがいい。
氷の風は微細な無数の細い線となりその1本1本が体全体の細胞の隙間をなめるように突き抜ける。そしてそれが、なんだか懐かしい。
DNAに刻まれた遠い記憶が海馬を伝って蘇る。体が軽くなっていくようだ。
私はニットキャップとネックウォーマーを外して両手を広げ、その刃物のように鋭利な風を素肌に受ける。火照った肌は一瞬にして零下の洗礼の下、ぴりりと引き締まる。そして次から次からと連軸的に風は細胞を突き抜けて行く。
やっぱり気持ちいい。
私は、しばらくの間そのままの姿勢を保って山頂に立ちつくした。
厚く空を覆った雲と些細ながら風に乗る雪であたりは白む。
雪が強くなりそうだった。
「そろそろ行こうか」たった一人、私はそう心で言って山を下りた。

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