Column

第127話  絵を描こう

  どうしたものか・・・。
絵を描いてみたいと思ったのは、その絵を観た時だった。
好きだった絵は東郷青児、カレンダーやら何やら、もの心ついたあたりから時々目にするその一種独特の簡素化されたまるで陶器のように硬質的でいて可憐な女性像に魅かれてのものだ。欲しいと思ったところでとても手の出る値段ではなかったけれど。
この頃になって殺風景な部屋の白壁に小さな絵でも飾りたいと思い立ち、油彩画を中心に物色し始めた。
目にする数ある作品群のなかにお気に入りの東郷青児の作品がちらりほらり、これまたお高い、とてもじゃないがやはり手は出ない。そんな折、そのコーナーの片隅に東郷たまみと言う画家の作品がひとつふたつ。
東郷・・・まさか・・・そうか、そういう存在が・・・それは東郷青児の娘であった。
彼女の作品の中に「これはっ」、と思えた作品がひとつ、しかも私でもいけそうな金額ではないか・・・そこで一念発起、早速私はその絵を手にしたのである。
たぶんパリの街角、小さなカフェの前を颯爽と闊歩するパリジェンヌを描いたSMサイズの小さな絵画。こころなごむとてもいい作品だ。
雑然とした部屋のなかに一輪の花でも添えたような潤いが生まれる。
織田広比古の描く世界にもひかれる。
月の放つ隠微な光のなかに包まれた音楽と裸婦の幻想的共存。
能仲ヤツオ、藤田嗣治、佐伯祐三、磯江毅などなど上げたらきりのない底知れぬ強烈な才能の数々。そんななか、横山申生のイタリアはアルベロベッロを描いた作品に目が止まった。とてもシンプルで穏やかな作品。
夕暮か、真っ赤に染まった空には綿菓子のような白い雲がプカプカと流れ、世界遺産のその丸屋根の建物が石畳の路地の両側に整然と並び、一画に存在する商店らしきたたずまいの軒先ではサッカーボール程の鞠を売る老人が背を向け椅子に座っている。客らしき姿は見えず、老人はただひたすらに座っている。その静かな世界には、その椅子に座る老人しか存在していないのかもしれない。精神的安定感のある極めてのどかな風景だ。
その絵を観た時に漠然とだが、絵を描いてみたい、そう思った。
その絵そのものの世界観を掌握してキャンバスに落とし込んでみたいと言うものではなく、小さなきっかけとしての入り口がそこにあった、と言ったところか。

小学6年の私、描いている水彩画をでかすために足繁く製材所に出向いていた。
築数十年の古びた木造の巨大工場、大きな製材機器がずらりと並びそれらを操る大勢の職人達を描いたものだ。飛散する木くずはあたりの空間を曇らせ、おおきな駆動音はあらゆるものを震わせた。目に飛び込んでくるあらゆる光の反射色を見極めては筆を画用紙に押し付けた。
その絵は、東奥日報小学生絵画コンクール入選、生涯唯一の賞状入手な過去の想い出。特選ではないところに才能の平凡さをうかがわせる。しかしあの時のあの小さな感動はいまでもしっかりと心のなかに残っている。コツコツやればなんとかなるさ。
もう一度描いてみようか。
経年からの経験を糧に今、目に入り込む様々な色をすなおにキャンバスに落とし込んでみよう。もしかすれば新たな可能性が見つかるかもしれない。

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