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第192話  きれいさっぱり

  早朝のジョギング、3日間続けたら4日目には休養を兼ねて、これも早朝、銭湯で汗を流すのが習慣になっている。現在は、2月(約5ケ月前)のスキーアクシデントで痛めた左膝の悪化のためランは一時中断していて、軽めなウォーキングへとスイッチしている。
ウォーキングに変更しても同じこと、4日目にはやはり銭湯へと向かう。
細かいタイルを器用に張り巡らせた昔ながらの銭湯は、シャワーが固定式と言う不便を除けばこれほど快適なものはない。混雑もなく、それぞれが誰を気にすることも無く思い思いのやり方で入浴を楽しむことが出来る。
脱衣所で服を脱ぎ、持参の四角い風呂桶を片手に、3列並ぶ洗い場のなかのひとつである窓側の列に私は歩を進めたのだが、その列の両端にはすでに先客がそれぞれ陣取り、一人は鏡を睨みつけながら髭をそり一人は頭を洗っていた。
いつもはこのどちらかの端っこに私は座るのだが、空いていないのでちょうどその列の真ん中あたりにプラのイスをセットし、座ることにした。
手にしていた桶を鏡前の15センチほど幅のあるスペースに置き、そして使い込まれて十分にくすんだピンク色のシャワー用レバーを右から左へとスライドさせて、か細くも懸命にヘッドからふき出す温水を体に当てた。そのシャワーが頭から始まり次に胸のあたりをたたき始めたあたりで、私はそれに気が付いた。
目の前に置いてある私の桶の5センチほど右横で、小さな虫が湯にまみれてもぞもぞともがいている。それはコガネムシだった。体調1cmほどの小さな体だけに、その狭いスペースの上に点在するちょっとした湯の塊にすっぽりとはまって右往左往、まともに移動もできずに6本の足を必死に動かしてはちょっと休む、を繰り返しているのである。
なんだよこんなとこで、このままシャワーで流そうか・・・・いや待て待て、それはあまりにもかわいそうだろ。せっかくこの世に生まれてきたのに、こんな古風な銭湯の片隅でザザッと水流に巻きこませて死なせるのは如何なものか。
ならどうする?
以前から内面に混在している、どちらが本当の私なのかがはっきりとしない「意思」同士がぶつかり合う。
もしかすればこのコガネムシ、もう少し時間をやればここから自力で脱出できるかもしれないし、またこの様子だとこのままここから動けないかもしれない、どうなるか猶予をやろう、そしていっとき、私はこの場を離れて湯につかり思考回路リセット、という事にした。5分ほど湯につかり戻ってみると、案の定コガネムシは未だ右往左往ともがいたままその場に留まっていた。
マジか、やっぱり移動は無理だったか、それなら、取り合えず体を洗ってから考えよう。
ささっと体を洗い終え、それでもコガネムシには余裕がありそうだったので、次に私はサウナへと向かった。サウナ室内にあるテレビでは、九州の豪雨での被害状況がリアルタイムで流されていて、これには見入ってしまった。現状はそうとうにひどいものだった。なんとか雨が止み、この荒れ狂う川の水だけでも引いてほしいものだと願った。この時点でもうコガネムシの事は頭の中から消えていた。
2度サウナに入り、2度水風呂に浸かったところで、私の席に戻った。
コガネムシはまだそこでもがいていた。
そうだった、このコガネムシ、どうしよう。
いっそこのまま見殺しにしても到底私のせいではない、勝手に奴がここに入ってきて思いがけずの水害に遭遇してしまいもがいているのだから。それはそれで仕方のない事だ、ただ、その見殺しにしたことが私の頭のどこかにこびりついていて、いつかふっと後悔の念がもりもりと膨れ上がったりしたらそれはそれで気持ちが悪いし、寝覚めも確実に悪そうだ。
じゃあいったいどうするんだ。
え~い、しょうがない~ここからは助けよう、だけどこの浴室内からだけだ、戸外までは私の範囲外だ。ここからだけの脱出でも十分にやり遂げ感はある。
そう決めた。
私は、身動き取れないでいるコガネムシをすくい取ろうとそっと右手を差し出した。その近づく陰に危険を察したのだろう、コガネムシは一段と暴れ出した。助けてやろうってのになんて奴だ。暴れた拍子に触れている私の指の間からするりとコガネムシは転げ落ち、足元を湯が流れる排水路に落ちた。ポチャリ、コガネムシは下流に流された。
やばい。
私はとっさに態勢を変えてその排水路に左手を差し伸べ、見事瞬時に床へとすくい上げることに成功した。乱暴に言えばすくい投げた、と言っても過言ではない。
私のその変な動きを察した左側のオヤジが、何事かとこちらを向いたがしかとした。
あんたには関係ないし、この事態をお知らせする義務もない。
流れる排水から私の力で脱出できたコガネムシはタイル張りの床に転がっていた。そこに再び私は手を伸ばしたのだが、これがまたもがくし小さいしでなかなか指ではつかめない。
右側のオヤジは何も気付かず懸命に頭を洗っていたのだが、今度はシャワーで頭の泡を流し始めた。そのシャンプーの泡を抱え込んだ流水が床に転がるコガネムシに迫ってきた。マジか、これを浴びたらひとたまりもないだろう。私はとっさに体を洗うメッシュタオルを手に取りコガネムシにかぶせた。そして横にずらすようにすくうとそのメッシュタオルに絡むように張り付いてきた。助かった。
右のオヤジはなにも気付かずに、頭にへばりついているシャンプーの泡を懸命に洗い流している。まぁ、目をつぶっているのだからそんなものだ。
コガネムシのへばりついたメッシュタオルを手に私はすくっと立ち上がった。そしてそのまま脱衣所へと向かった。何事かと左側のオヤジがまたこちらに目を向けたがやはりしかとした。
脱衣所と浴室を隔てるガラス戸を開けると、すでに洋服に着替えていた別のオヤジがこちら側を向いた。あんたとは初対面でなんの関係もないのだからこちらを見ないでくれと思いながらもニコリと愛想を向けといた。その思いは通じたらしい、そのオヤジは私から目をそらすとビニール張りの長椅子に腰掛け、下を向きながらフゥーと気持ちよさそうに長い息をひとつ吐いた。
ここでこのコガネムシをどうしよう、とっさに考える。さっきも言ったように助けるのはここまでだ。あとはお前のやる気次第だ。長椅子のオヤジの眼もなくなったので私はメッシュタオルをふわりと広げ、出てきたコガネムシを人差し指で跳ね上げた。コガネムシはくるりとひと回転しては板張りの床に転がり落ちた。無事着地、生きている。
私の役目はここまでだ、もう知らない、あとはお前自身の問題で、私は即時解放される。
ひと安心で振り返り、私は鏡のある席に戻った。固定式のシャワーで全身を流し、そしてそこを後にした。もう後悔に値する要素はすっかりと消え去った。
着替えをして銭湯の玄関を出ると朝の太陽が街のあちらこちらに陽光を投げかけている。今日もいい天気だ、心も体もきれいさっぱり何もない。
ブーーーーン。
そんな音とともに、私の右腕に何かがぶつかった。
なんだ、と思い何気に右腕に目をやるとそこには何やらうごめくものがくっついている。
うわっ、とっさに左手で振り払った。体の防衛反応的反射だった。
道路にはコガネムシが転がっていた。
おいおいまたか、今日は朝からいったいどうなってんだ。
もぞもぞ動いている、どうやら生きてはいるようだ、良かった。
フゥ―、ため息をひとつ。
まるで不審者のように私はあたりを気にしながら家路へと着いた。

 
   
   
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