あと6キロくらいか・・・、残りのそれくらいをこのまま止まることなく走りきる事が出来れば今回の目標を達成することができる。 それにしてもまた、このもうひといきの大事な場面で、ひとり現れた。 さらり、私を追い抜いたかと思いきや失速して歩きだし、そこを私に抜かれてはまた猛然と走り出す、そして私を追い抜いてはまた歩きだすと言ったハイブリットランナー。悪気はないのだろうが、その不規則な光景が10回以上も続けばまるでからかわれているようで、精神的傍迷惑な行為に感じてしまう。 昨年は、中盤あたりに突如現れたそんなランナーに不覚にも心をかき乱されてしまった私はすっかり自分自身を見失い、ペースメーク失敗による不慮の足つり発生で多くの距離を歩かざるおえない状況に陥ってしまった。初めてのフルマラソン挑戦で受けた洗礼とでも言うのか、とにかく精神的困憊から来る肉体疲労が急激に蓄積された状態に間違いなかった。まだまだ未熟、と言っても仕方がない屈辱的な出来事だった。
私は決心していた。 今回は他のランナーには関心を持たず自身のペースをまもり切る、そして絶対に歩かない、どんなに苦しくてもゆっくりでも走りきると言う事だ。 2回目と言うのはやはり心に幾ばくかの余裕をもたらしてくれていた。 経験とは心強い。 初回に感じた距離感は心なしか短縮されて受け取る事ができていたし、アップダウンに対してもそれなりに体が対応できていた。 全くぶれる事無く私はその全体をたんたんと走る事が出来ていた。途中、初回とは反対側の右足にちょっとした違和感が芽生えてきたが、即座に左足でカバーしながら走った。そうしているうちに右足の違和感は消え去り、再び両足を踏ん張る事ができた。そんなふうに適度なバランスをとりながら、考えながら走った。 また、給水所に置かれたスポーツドリンクとバナナは必ず口にした。そうすることで喉の渇きをしっかりと補えたしパワーを取り戻すことが出来た。
さすがに長丁場の終盤、このあたりまでくると、太ももからふくらはぎそして足裏と、足全体に痛みが走った。筋肉から関節から骨格に至るまでこの老体、ギリギリで頑張っているのが素直にわかる。アスリートとは程遠い生活を送って来ていた私にとっては体の限界はとうに超えているにきまっている、残っているのはちっぽけな気力とアドレナリン流出による程良い勘違いだけだ。 ただ、今回、私の心は自身を見失ってはいなかった。 極めて冷静にそのハイブリットランナーを分析できていた。私は、私の走りをする事が今できる唯一の方法であり、周りにまどわされないようにゴールに向けて一歩一歩突き進む事がベストなのだ。レッドゾーンに突入しているはずのわずかに残されたこの体力を無駄に消費してしまっては最終大きなダメージにつながる。私はそのランナーの往来を気楽に捕えては私のペースを守り続けた。もう少しなのだから・・・。 「あと2キロ、もう少しだぞ、たったの2キロだぞーっ」 沿道から声援の声がかかった。 これには私の心は少しばかり弱気に震えそうになった。42キロと言う長い距離からしてみればあとはたかだか2キロに過ぎない感覚なのだろうだが、40キロと言うとてつもない距離を走ってきていて、心の中でわざと曖昧に「あと少し、あと少し頑張ればゴールが待っている」と思わせながら走っている時点での「あと2キロ」のはっきりとした声明は心にぐさり、痛みとして突き刺さる。やはり弱いものだ、と自身感じてしまう。それでも私は昨年とはひとつちがっていた。そうだ、あとたったの2キロじゃないか、いつものジョギングコースで考えたらあそこからあそこまでの、ほんの少しじゃないか、なんてことはない、そう自身に言い聞かせる事が出来た。 経験とは本当に心強い。 ついにゴール間近の市街地へと続く軽い上り坂へと突入した。 この時点で私の前方には女性のランナーがひとり、そのハイブリットランナーは少しばかり後方にいたはずだ。と言うのも、ついさっき彼を追い越したばかりだった。このままのペースでこの上り坂を進んでいてはまた彼は私を追い越して行くことだろうが、構う事は無い、また止まるはずだ。そんな事を考えていると、私の前方を走っているその女性がもち合わせた最後のギアをトップに入れたようにスピードをグンッと押し上げた。ラストスパートだ、すばらしい。私はみるみる離されていく。 「これでいいのか」そう思った瞬間、私の知る由もないどこかに隠れていたギアがひとつカチリと入った。 あるのか無いのかわからない最後の絞り出しの力を振りしぼって私は懸命に前へ前へと駆けた。スピードは前を走る女性にせまる程に上がった。折り返してからの後半では一番早い走りかもしれない。 心臓が波打ち、肺が悲鳴を上げる。 「最後だ、ここを登り切れば走る事を終わりにする場所が待っている」 ひと蹴りひと蹴り乾いた路面に思いをぶつけて踏ん張った。 もう私の後方から私を追いぬくものはいなかった。 意識と決意とこの体は、ひとつの丸い塊となって浮遊している。 目の前に、とうとうゴールが近づく。 とてつもない絶頂感が音も無く私を包み込んだ。