中学1年の夏の夕暮れ、剣道の部活も終わりへとへとに疲れ切った体を引きずるように家路をたどっていた私。肉体的疲労困憊は感情の起伏を制御してくれる、いわば鎮静剤のようなものだ。視野も思いのほか狭くなっているようだが気にしない。そんな状態で足元をぼんやりとなめながらとぼとぼと歩道を歩いていると、突然けたたましいサイレン音が私の耳穴を貫いた。それはやや古びた小型の消防車からのものだった。その一台は私をすんなりと追い越して行ったと思いきや、100メートル程進んだあたりですぐに停車した。 その大袈裟ともいえる大音量に随分と驚かされた私は、その音につられるように顔面を前方に向けてみると、今までまったく気が付かなかったのだが、私の立ち位置から10軒ほど先の家がぼうぼうと勢いよく燃えていた。 火事を目の当たりにするのは生まれて初めての事だった。 そのあまりの衝撃的なはずの出来事との遭遇なのだが、私自身は意外と冷静にその光景を受け止める事が出来ていた。やはり極度の疲労のせいに違いない。 急ぐでもなく現場まで足を運んでみると、あたりはすでに騒然とした様相を呈していた。 野次馬が数十人やいのやいのと大さわぎの中、前出の消防車がホースから大量の水を火の元めがけては吐き出していた。 私はと言えばその野次馬達の後方に陣取り呆然と突っ立ったままその燃え盛る家の2階の窓を眺めていた。そこはすでに窓ガラスが割れた状態で家の中でも炎がものすごい勢いで暴れているのが見えていた。まるでテレビの画面でも眺めているような実感の持てないままの映像が網膜に映り込む。 それでもジッと眺めていると、すでに枠のみとなり果てたその窓穴から一匹のカマキリが姿を現した。のっそりと下側の枠に足を掛けて全身をあらわにすると、ぱらっと羽を広げ次の瞬間ゆっくりとその体を中空に浮かべた。私にはスローモーション画像のようにその動作の一部始終をミリ単位まで鮮明に見取る事ができた。 宙に舞ったその緑色の大きな体は一直線に、あきらかに私をめがけて飛んできた。私はじっくりとその軌道を確認しながらもあくまで冷静にその悠然たる姿を目でとらえ続けた。心はやはり妙に落ち着いている。緑の体は私の顔面にぶつかる手前まで近づいて、ぎりぎりすり抜けるように左に逸れた。私は顔をよけようとすることは無かったし、また過ぎ去ったそれを目で追う事も無かった。幽かに聞こえるその羽音だけか徐々に遠のき、そして消え去った。 しばらくして消防団の活躍もあり火は消えた。 私のなかにはその緑色のカマキリの記憶だけが鮮明に残った。
早朝のジョギングに出かけた時だった。 いつのも折り返し地点を折り返した時、ウ―ウ―ウ―と緊急を知らせる消防車のサイレンの音が穏やかな日常を切りさいた。 「火事か、このあたりでは珍しいな」 そんなふうに思いながらもいつもの走りに徹していた私。野を超へ山を超へとまでは行かないがそれなりの起伏に富んだ路線を走り切り、家まで3キロくらいのところまでに近づいた。ちょうどこんもりと生い茂る林を抜けたあたり、前方に家並みが姿を現すとその火事の現場とおもわれる天まで登る黒煙の柱が私の目に入った。 「あそこか、家に近いな、あぶないあぶない」 案外我が家に近い感じがして一瞬ドキリとしたのだが、まさかである。 私はいつもの速度で順調に距離を稼ぎ我が家の方向に突き進むのだが、その黒煙の柱を眺める角度が少しづつ変化していくたびにその黒煙の元が家に近づいてきているように見えてくる。それでもまさか、である。 決定的だったのは、家まで200メートルくらいまで近づいた時だった。 あきらかに我が家の屋根あたりから黒煙が噴き出しているように、屋根部分と煙柱が重なって見えてきたのである。 それを目にして、私は心底あわててしまった。 「どうして・・なにが原因・・火のもとなんてないはず・・燃えてる・・まさか・・」 頭の中は目まぐるしく思考が廻り、軽いパニック状態と言っていい心の動揺。 私は走る速度をマックスへと上げて家路を急いだ。 多少疲れているとは感じていたがそれどころではない状況にアドレナリンはどっぷりと放出されているのだろう、とんでもない速度で走っている。仮に、こんな速度でマラソン大会を走り切れたらどんなにもすごい記録が出る事だろう。 先の角を曲がれば我が家が目の前といったシチュエーション、私の心臓はドックンドックンと激しく高鳴り、今目に見えているそのもの全てが嘘であって欲しいと願うばかり。 とうとうその角までたどり着いた。 私は何の躊躇も無くその角を振りきった。 目の前に2台の消防車が見え、その2本のホースからは赤々と燃え盛る炎に向けて大量の水が放出されていた。その過酷な環境を取り囲むように数十人の近隣者が見守っている。 火事は隣の家だった。 ひとつ駐車場を隔てた隣の家がまっかに燃えていた。 複雑な心持ちであった。 正直、ホッとしたのも確かな心境だったが、そこに住んでいる人は果たして大丈夫なのだろうか?と胸が痛んだのも確かな事だった。息を切らしながら私はその火事を見守る群衆のなかのひとりとしてその場にたたずんだ。大きな家だけにそれだけ困難が伴う。 しばらくして応援の消防車が一台やってきて、迅速に放水をはじめた。 人数の増えた消防員の活躍もあり、あきらかに火事は沈静化へと向かっていった。
「おばあちゃん逃げて助かったらしいよ、よかったね」 2列前の主婦らしき年配の女性が隣の年配の女性に話しかけた。 それを耳にした私は、ほっとした。 ほっとして気が抜けたと同時に、私は大きな倦怠感につつまれた。かつて経験の無いあれほどの早い速度で、あれだけの距離を息も切れ切れかっ飛ばしたのだから仕方あるまい。じわりと全身に疲労がめぐると私の感情は波打つ事をやめ穏やかな凪ぎ状態へと移行した。 すると、この目の前の惨事を含む現状は、立体感の無いまるで薄っぺらい世界へと変化していく。 (こんなまじかで火事を目にしたのは中学以来だ) ぼんやりとそんな過去が浮かぶ、あの青いカマキリが大きな羽を広げ私めがけて飛んでくる姿が、ふわり脳裏を過った。あの時も確か「年老いた女性」がひとり助かったはずだった。