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第102話  笑うおとこ

  男はフード付きの真新しいウインドブレーカーに袖を通した。
かなり気温の下がり始めたこの時期、快適に走るためにはどうしても欲しかったそれを昨日仕事帰りに郊外のスポーツショップへとたちより買って来たものだ。
デザインもそうなのだが、なによりもそのフードが体全体を包み込んでガードしてくれているような感覚を男は随分と気に入っていた。
これで寒さに震えることはないだろう。
男は玄関のドアを開けて、しらけた朝の空気の中に踏み出した。
やはり温かい。
昨日までのスタンドカラ―のものとは大違いだ。首元から冷たい空気がひゅるひゅると入ってくる事はなくなっている。視野はやや狭くなるものの走るために必要不可欠な前方の景色はあらかた確認できる。耳だってそうだ、布一枚が覆っているだけだ、しっかりとあたりの物音をキャッチ出来ている。まったく危険はないだろう。入念な準備運動のあと男はゆっくりと走り出した。
快適だ。
その時ついでに買ってきたフリースのグローブもなかなかいい。これはこのウインドブレーカーと一緒に買って大正解だった。気分もよければ体調もそれに伴うものだ。なんだかいつもより足も軽く感じるが、肺の吸排気がすこぶる順調だ。気道の引っかかりがない。
序盤の馴らしを終えて少しづつスピードを上げる。
タッタッタッタッ・・・・
と、どこからか男の耳に地面を蹴る音、あきらかに誰かが走っているだろう足音が聞こえてきた。つかの間、息をこらして耳を澄ましてみると、それは男の後方からであることがわかった。まぁよくあることだ。
男は、中くらいまでに上げたそのスピードを保ち、無関心をよそおうと前へ前へとひとけりひとけり順調に進んだ。
あたりに風はありそうだがそれほど強いものではない。
無風なのだが単に走ることにより気流を感じているだけのか、それともそれが本当にそよいでいるものなのかの違いがはっきりとしない程度だ。まぁこれくらいが走るのにはちょうどいい塩梅だ。
背中あたりにしっとりと汗らしき湿り気を感じるようになった。
こうなれば準備段階も終りだ。もう少しスピードを上げてみようか。
どうやら奴はまだついているようだ。
タッタッタッタッ・・・・
この音の感じはさっきと変わらない位置感だが、テンポは幾分早まっている。
つかず離れず、といったところか?
まぁそんなのは奴の勝手だ、奴がどこをどう走ろうが私には関係ない、私は私のペースで走ればよいのだ。男はそう思うと同時に歩幅を広げるようにさらにスピードを上げた。
それでも後ろからは同じような距離感でまるで男に合わせているようなそのリズムで伝わってくる。なんだか技量を見透かされているようで嫌な感じだ。
男にとってはこれが経験上のマックスのスピードであり、これを保ってラストまで突き進むしかなかった。後ろを見る事は決してすまい、男はそう決めた。
タッタッタッタッ・・・・
前方にいつもあいさつをしてくれるおばちゃんがいていつものように家の前で掃除をしている。それに近づいた男は大きな声を張った。
「おはようございます、さむいですね!」
「ああ、おはよう、うん、寒いね、でもいつも精がでるね、がんばって!」

「はーい、ありがとうございます!」
三日に一回はそんな言葉のキャッチボールでこの場所をスル―する。
このあたりはこんな気さくな人達がおおい。近頃では通学途中の小学生なんかとも出くわせばよくこんな挨拶をするようになった。どちらかと言えばひとみしりでぶっきらぼうな性格だったから、人間的にはよい傾向だ。そんな軽い言葉のやり取りを済ませて走っているのだが、またすぐにでも聞こえてきそうな後方からの挨拶が一向に聞こえてこない。男の耳にははっきりと後方で地面を蹴る足音が聞こえているのに・・・おばちゃんの方から の挨拶も無い?いったいどういうことだ。そうか、本当は奴らはちょくちょく会っているのだけれど、おばちゃんがそのたびに挨拶するのだが、奴がまったく無視の状態を貫いていて、あきれたおばちゃんがもう挨拶をするのをあきらめた、そんな感じかもしれない。
後方の奴は挨拶すら出来ない不逞の輩か。どんな野郎だ、いったい。
いや、まてよ、野郎とは言ったが決して男だとは限らないか、そうだ、女の可能性も無きにしも非ずだ。もし万が一女だったらまさに男勝りな大女に違いない、まぁ年齢はどっちにしても関係ない、たかだかジョギングながらこんな人心荒廃的な状況で負ける訳にはいかないぞコンチクショウ、どれ、どんな奴なのかちらりと・・・。
いや、だめだだめだ、そんなことしたら私の意に反するし、また後ろの奴の思うつぼだ。
後方を見た瞬間に、おいおいなんだよこいつ、なにこっち気にしてんだよ、小っちゃい男だな、なーんて思うに違いない。ここはぐっとこらえてこのまま前へ向かって進むのみだ。そんな挨拶も出来ない非常識で偏屈で理不尽な奴など相手にするものか。
男は憮然とした顔を作りながらも、ハ―ハ―と息継ぎのために口は半開きのままだ。
そんな変な調子でコースの半分を過ぎたあたり、慣れたコースではあるがあちこちを気にして走っているあまり、いつもなら引っかかることのない縁石にシューズの先っぽを引っ掛けてしまった。男はつんのめり、あわや顔面から地面にキッスといった具合に突っ込んだ。しかしここで日頃の運動が功を奏したのだろう、突っ伏しそうになった瞬間、両手を前方に突っ張りへんてこな格好ながらなんとか難を避けた。
ほーーーーっ助かった。
ホッとした、が直ぐに後方の奴が気になった。
耳を澄ますと足音がない。そうか、この無様な姿をなめまわすように高みの見物と言ったところかコンチクショウ、こっぱずかしいったらありゃしない。これではまずい、と思った男はすくりと立ち上がり、何事もなかったかのように再び力強く駆けだした。
後方など絶対に覗くものか。
それに続けとばかりに後方より再びタッタッタッと地面を蹴る音が男の耳をつっつく。
あきらかに私を愚弄している。
ここで男は、はっきりと闘争心が芽生えてきたことを自覚した。
後方の奴がこの私をもてあそぶつもりなのなら私にも考えがある。私は絶対に負けないぞ、今までに経験したことのない早さでぶっちぎってやる。 ゆでダコみたいにメラメラと耳穴から湯気が吹きあがり、こりゃあもう止められない。
男は腕も膝も大きく振り上げ、そして歩幅を大きく蹴りあげた。グイーンとスピードが上がった。未知の不安が付きまとうが決めたことだ。
どうだ、コンチクショウ。
タッタッタッタッ・・・
なかなかやるな、はぼ同じスピードでついてきやがる、ムッムッムッ。
絶対に負けないぞ、負けてたまるか!
男は渾身の力をふりしぼり、懸命に駆けた。駆けて駆けて駆けまくった。
視野はせまくなり、すでに目の前数メートルの路上しか網膜に焼き付いてはいない。
それでも尚ぴったりと着いてくる足音は元気そのものだ。

その時、男の心臓がピクリといつもと違う鼓動を刻んだ。
クイックイッと不整に動く。
これはまずい、とっさにそう思ったがここで止まる訳にはいなかい。ここで止まってしまったら完全に私の負けだ。勝負感ありありのスピードまでぐっと上げておきながら負けたら何か、よくわからないけど何かに申し訳ない。
男は右手で心臓のあたりをトントントンと押し込むようにたたきながらも更に駆けた。
おっと、前方に爪楊枝の先っぽ程に終点のバス停が見えてきた。
もう少しだ、あと一息でこの過酷な試練を終えることが出来る、心臓よ、そこだ、すぐそこまでいけば休める、それまで頑張ってくれ、私をこのまま敗者にしないでくれ、たどり着ければきっといい事があるはずだ、それにしても後ろの奴の粘ること、たいしたものだ。きっと名のあるものに違いない。
しかし、しかし負ける訳にはいかない。
終点が目前にせまっていた男は顔をしかめながら最後の力を振り絞るように全身を躍らせ、更にスピードを上げた。
その時だった。
クイックイッと再び心臓が不規則に動いたかと思うや、急にグイッと何か強い力で握りつぶされたような激しい痛みに変わった。
もう終点のバス停は真新しいチョーク程に大きく見えている。もう少しじゃないか。
わが身に鞭打ってはみたが、鉛のように体が重く硬く冷たく変化していくのがわかる。意識は前方に向かってはいるのだが、体はそのまま崩れ落ちるように沈んだ。
ドサッ!
膝がもろく折れ曲がり、びくともしない地面を肩が押し付け、そして側頭部が地に触れた。ちょうど後方が見渡せるような格好で九の字に伏した。
そこには誰の姿も無かった。
痛みをこらえ懸命にあたりに眼球を照らしたが、何者の姿をもとらえる事は出来なか った。
誰もいなかったのか?まさか。
その力なく横たわる体の上を、海からのたよりないひとかたまりの風が通り過ぎた。
タッタッタッタッタッ・・・
えっ!
それって・・・そうか・・・そうだったのか・・・それはこれだったのか・・・・
真新しいフードがハタハタと素知らぬ顔で単調にはためいた。

なんだよ、いつもそうだよ、と男は思った。
思い込みの激しさにはほとほとあきれかえってしまった。増してやいらない意地を張る癖にも嫌気がさした。なんの事はない一度確かめればそれで済むことではないか。思えば今までの人生そんな事の繰り返しではないか、全く進歩がない。いまさらながらどんなに反 省しても仕方がない、次からはなんとか、次はきっとなんとかなるさ、そんなもんさ、ふはぁっはっはっはっはっは・・・・
薄れゆく意識の中で小さな人生を振り返った男は急に力なく笑いだした。
だが、すぐにも息は途絶え、頭部は凍てついた大地へと沈み込んだ。

しっかりと準備運動を終えた私はそんなとりとめもない妄想を振り払い、真新しいウエアーを確かめるようにゆっくりと走り出した。

 
   
   
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